賃上げの社内議論は、いつも「何パーセント出せるか」から始まる。世間の水準、同業の動き、採用への影響、労働組合の要求。そこに人事から人件費予算の増額案が上がってきて、財務が渋い顔をする。この順序が、そもそも間違っている。賃上げ率を議論する前に出しておくべき数字は、人件費が営業利益の何倍あるかという一行だ。 人件費が営業利益の5倍ある会社にとって、人件費総額が3%増えることは、法定福利費まで含めれば営業利益の17%が消えることを意味する。この一行がテーブルに乗っていない交渉は、労使のどちらも、自社が耐えられる水準を知らないまま進むことになる。
まず出す一行:人件費レバレッジ
分子の定義だけは間違えないこと。世間相場として語られる「賃上げ率」は定期昇給を含んだ数字だが、年齢構成が一定なら定昇は総額としてほぼ中立になる。昇給する人と、その分の原資を空ける退職者が入れ替わるからだ。定昇込みの率をそのまま人件費総額に掛けると、増分を二重に見ることになる。
だから二本出す。上限側の試算として定昇込みの率を掛けた数字、本線としてベースアップと一時金の増分に要員構成の変動を足した純増。交渉で使うのは本線で、上限側は「これ以上は構造的に無理」の線を示すために置いておく。
計算そのものは掛け算三つで、経理部員なら5分で出る。それでも多くの会社の労使交渉の場に、この数字はない。出ているのは「昨年は◯%、今年の世間相場は◯%」という率の比較だけだ。
率の比較には、耐えられる水準の情報が一切含まれていない。同じ総額5%増でも、人件費が営業利益の2倍の会社と8倍の会社では意味がまったく違う。前者は営業利益の約12%で済むが、後者は46%が消える。労働分配率の高い業種ほど、この一行を出さないことのリスクが大きい。
もう一つ、感応度を出すときに落としがちなのが波及分だ。賃上げは基本給だけで完結しない。時間外割増の単価が上がり、標準報酬月額の改定を通じて社会保険料が上がり、退職金が最終給与比例なら退職給付債務が動く。法定福利費の乗数1.15は、この波及の最小限を拾っているにすぎない。
ベアと一時金は、別の意思決定である
「賃上げ5%」という数字の中身が、定期昇給とベースアップと一時金のどれでいくらなのか。ここを分けないまま議論している会社は、想像以上に多い。
総額への効き方だけでなく、可逆性が違う。ベースアップは賃金テーブルそのものを持ち上げるので、総額が恒久的に増え、翌年の賃上げはその上に乗る。一時金は当期限りで、業績連動なら翌期に戻せる。定期昇給は前節のとおり総額としてはほぼ中立だが、それは年齢構成が定常状態にある場合の話で、若返っている会社では純減、高齢化していれば純増になる。自社の年齢分布で実額を確かめておく必要がある。連合が春季生活闘争の集計でベア分を分けて公表しているのも、三つの性質がここまで違うからだ。
3年続けて5%台という水準は、もはや一時的な現象として扱えない。そして最低賃金の目安がAランク54円に対しCランク56円と地方に厚く配分されたことは、地方の生産拠点を持つ会社ほど下限からの押し上げが強いことを意味する。「今年をどう乗り切るか」ではなく「この水準が続く前提で3年分の利益計画をどう組むか」が問いになっている。
吸収先は三つしかなく、リードタイムが全部違う
価格──効きは最大、時間は最長
売上高に対する人件費比率が20%の会社なら、人件費総額が5%増えたぶんを価格だけで吸収するのに必要な値上げは、法定福利費まで含めても1%強で足りる。桁として、価格は他の手段を圧倒する。
問題は時間だ。価格改定は交渉、契約更改、システム反映、顧客への告知を経るため、決めてから損益に出るまで半年から1年かかる。4月の賃上げに間に合わせるには、前年の秋には交渉を始めていなければならない。今年の賃上げの原資は、去年の価格交渉で作られている。 賃上げの意思決定と価格の意思決定を別の会議で扱っている限り、この時間差は埋まらない。
そして交渉の現実はこうだ。
交渉の実施率は9割を超えている。それでも労務費の転嫁は半分だ。つまり「まず交渉しろ」という段階はすでに終わっていて、論点は交渉の中身に移っている。内閣官房と公正取引委員会が2023年11月に公表した「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」は、受注者の行動として、自社の個別原価を開示するのではなく、最低賃金の上昇率や春闘の妥結水準といった公表資料を用いて協議することを挙げている。発注者側にも、定期的に協議の場を設けることや、提示された公表資料を踏まえて協議に応じることを求めている。
これは実務的に大きい。原価を開示せずに交渉できるということは、交渉のカードが「自社の苦しさ」から「公表された社会的水準」に変わるということだ。上に挙げた最低賃金の目安や春闘集計は、そのまま交渉資料になる(価格戦略に財務が入る|値上げ判断を勘でなく利益で決める)。
生産性──計画に書いてよいが、原資には数えない
一人当たり付加価値は、業務の作り替えや投資の効果で確かに上がる。ただし年次で動く幅は数パーセントで、しかも効き始めるのが期の途中からになる。一方の賃上げは4月に確定し、12か月分が満額で乗る。
だから「生産性向上で吸収する」と書いた計画は、金額の桁とタイミングの両方で足りない。生産性は中期の話として計画に書き、単年の原資としては数えない。ここを混ぜると、未達の原因が価格なのか生産性なのか分からなくなり、翌年の計画も同じ形で立つ。
投資・その他固定費──即効性はあるが、翌年の余力を食う
広告費、システム投資、採用、教育。ここを削れば当期の利益は守れる。だがこれは、翌年以降の成長と生産性の原資を前借りしている。ここに寄せた年は、翌年の賃上げ余力がさらに減る。
つまり三つの吸収先には順位がある。価格を最優先で取りにいき、足りない分を投資の抑制で一時的に埋め、生産性は中期の回収に置く。逆順にした会社は、二年目に行き詰まる。
交渉に持ち込むのは、率の表ではなく感応度の表
労使交渉の資料を「他社水準の一覧」から「感応度のマトリクス」に変える。縦軸に人件費総額の増加率、横軸に価格転嫁率を並べ、交点に営業利益の着地を入れる。売上高100・人件費20・営業利益5(営業利益率5%)の会社で組むと、こうなる。
| 人件費総額の増加率 | 転嫁0% | 転嫁25% | 転嫁50% |
|---|---|---|---|
| 2% | 4.54(▲9%) | 4.66(▲7%) | 4.77(▲5%) |
| 3% | 4.31(▲14%) | 4.48(▲10%) | 4.66(▲7%) |
| 4% | 4.08(▲18%) | 4.31(▲14%) | 4.54(▲9%) |
| 5% | 3.85(▲23%) | 4.14(▲17%) | 4.43(▲11%) |
| 6% | 3.62(▲28%) | 3.97(▲21%) | 4.31(▲14%) |
営業利益額。カッコ内は現状比の毀損率。法定福利費の乗数1.15、転嫁分は当期中に全額反映と仮定。
この表の読み方は一つしかない。横に一マス動く価値が、縦に一マス我慢する価値より大きい。 転嫁率を0%から50%へ動かせれば、総額5%増でも毀損は23%から11%に半減する。逆に、転嫁がゼロのまま賃上げだけ2%から5%に上げると、営業利益は9%減から23%減へ落ちる。交渉で削りにいくべきは賃上げ率ではなく、横軸のほうだ。前提(人件費総額、法定福利費の乗数、売上高人件費比率、価格改定のタイミング)は表の下に全部書き出しておく。
この一枚があると、交渉の性格が変わる。労使が別々の数字を持ち寄って主張をぶつけるのではなく、同じ表を見て前提のどこが違うかを議論することになる。組合側から「価格転嫁率の前提が保守的すぎる」と指摘されるなら、それは正しい議論だ。実際、転嫁率の前提を1段上げれば、出せる賃上げ率は1段上がる。率だけを言い合う交渉では、そこに到達できない(感度分析とシナリオ分析で投資の不確実性を見える化する)。
「いくら出せるか」ではなく「どこから出すか」
賃上げを止められる会社は、もうほとんどない。採用市場でも、最低賃金の下限からの押し上げでも、事実上の下限が毎年切り上がっている。だから問いは「出すか出さないか」でも「いくら出すか」でもなく、「どこから出すか」だ。
そして吸収先の配分は、賃上げの直前に決められる性質のものではない。価格には半年から1年、生産性には数年かかる。賃上げの意思決定を人事のカレンダーに置いている限り、この時間には間に合わない。 価格方針の決定と同じテーブルに、賃上げの感応度を持ち込む。CFOがやるべきことは、率を値切ることではなく、議論の場所と時期を移すことである(事業計画と整合する中期経営計画の数字設計:絵に描いた中計にしないために)。



