賃上げの社内議論は、いつも「何パーセント出せるか」から始まる。世間の水準、同業の動き、採用への影響、労働組合の要求。そこに人事から人件費予算の増額案が上がってきて、財務が渋い顔をする。この順序が、そもそも間違っている。賃上げ率を議論する前に出しておくべき数字は、人件費が営業利益の何倍あるかという一行だ。 人件費が営業利益の5倍ある会社にとって、人件費総額が3%増えることは、法定福利費まで含めれば営業利益の17%が消えることを意味する。この一行がテーブルに乗っていない交渉は、労使のどちらも、自社が耐えられる水準を知らないまま進むことになる。

POINT
賃上げは、人件費予算の増額として処理してはいけない。恒久的な固定費の引き上げであり、翌年の賃上げはその上に乗る。判断は三段で組む。第一段は感応度で、人件費総額の増加が営業利益を何パーセント削るかを、法定福利費の事業主負担(おおむね賃金の15%程度)まで含めて一枚にする。第二段は吸収先の配分で、価格・生産性・投資(およびその他固定費)の三つしかない吸収先に、あらかじめ割合を振る。第三段はリードタイムの整合で、最も効くのは価格だが、交渉から改定、反映までに半年から1年かかる。つまり今年の賃上げの原資は、去年の価格交渉で作られている。この時間差を認識せずに「生産性向上で吸収する」と書いた計画は、ほぼ確実に未達になる。生産性は年次で数パーセントしか動かないのに、賃上げは4月に一括で確定するからだ。

まず出す一行:人件費レバレッジ

賃上げが営業利益をいくら削るかは、掛け算三つで出る。
人件費総額の増加率
×
人件費総額(賞与を含む年額)
×
法定福利費などの乗数(おおむね1.15倍)
=
営業利益から出ていく年額
これを営業利益で割ると毀損率が出る。人件費が営業利益の5倍ある会社では、総額3%の増加が営業利益の約17%に相当する。

分子の定義だけは間違えないこと。世間相場として語られる「賃上げ率」は定期昇給を含んだ数字だが、年齢構成が一定なら定昇は総額としてほぼ中立になる。昇給する人と、その分の原資を空ける退職者が入れ替わるからだ。定昇込みの率をそのまま人件費総額に掛けると、増分を二重に見ることになる。

だから二本出す。上限側の試算として定昇込みの率を掛けた数字、本線としてベースアップと一時金の増分に要員構成の変動を足した純増。交渉で使うのは本線で、上限側は「これ以上は構造的に無理」の線を示すために置いておく。

計算そのものは掛け算三つで、経理部員なら5分で出る。それでも多くの会社の労使交渉の場に、この数字はない。出ているのは「昨年は◯%、今年の世間相場は◯%」という率の比較だけだ。

率の比較には、耐えられる水準の情報が一切含まれていない。同じ総額5%増でも、人件費が営業利益の2倍の会社と8倍の会社では意味がまったく違う。前者は営業利益の約12%で済むが、後者は46%が消える。労働分配率の高い業種ほど、この一行を出さないことのリスクが大きい。

もう一つ、感応度を出すときに落としがちなのが波及分だ。賃上げは基本給だけで完結しない。時間外割増の単価が上がり、標準報酬月額の改定を通じて社会保険料が上がり、退職金が最終給与比例なら退職給付債務が動く。法定福利費の乗数1.15は、この波及の最小限を拾っているにすぎない。

ベアと一時金は、別の意思決定である

「賃上げ5%」という数字の中身が、定期昇給とベースアップと一時金のどれでいくらなのか。ここを分けないまま議論している会社は、想像以上に多い。

総額への効き方だけでなく、可逆性が違う。ベースアップは賃金テーブルそのものを持ち上げるので、総額が恒久的に増え、翌年の賃上げはその上に乗る。一時金は当期限りで、業績連動なら翌期に戻せる。定期昇給は前節のとおり総額としてはほぼ中立だが、それは年齢構成が定常状態にある場合の話で、若返っている会社では純減、高齢化していれば純増になる。自社の年齢分布で実額を確かめておく必要がある。連合が春季生活闘争の集計でベア分を分けて公表しているのも、三つの性質がここまで違うからだ。

2026年の外部環境──下がっていない
5.26%
2026春闘 第1回回答集計
定昇込み・加重平均。出典:連合(2026年3月23日公表)
5.05%
うち300人未満の中小組合
552組合。同上
+55円
2026年度 最低賃金の目安(全国加重平均)
1,121円→1,176円、+4.9%。中央最低賃金審議会 2026年7月28日答申

3年続けて5%台という水準は、もはや一時的な現象として扱えない。そして最低賃金の目安がAランク54円に対しCランク56円と地方に厚く配分されたことは、地方の生産拠点を持つ会社ほど下限からの押し上げが強いことを意味する。「今年をどう乗り切るか」ではなく「この水準が続く前提で3年分の利益計画をどう組むか」が問いになっている。

吸収先は三つしかなく、リードタイムが全部違う

価格──効きは最大、時間は最長

売上高に対する人件費比率が20%の会社なら、人件費総額が5%増えたぶんを価格だけで吸収するのに必要な値上げは、法定福利費まで含めても1%強で足りる。桁として、価格は他の手段を圧倒する。

問題は時間だ。価格改定は交渉、契約更改、システム反映、顧客への告知を経るため、決めてから損益に出るまで半年から1年かかる。4月の賃上げに間に合わせるには、前年の秋には交渉を始めていなければならない。今年の賃上げの原資は、去年の価格交渉で作られている。 賃上げの意思決定と価格の意思決定を別の会議で扱っている限り、この時間差は埋まらない。

そして交渉の現実はこうだ。

交渉のテーブルには着けている。着いたうえで、半分しか通らない
90.7%
価格交渉が行われた割合
出典:中小企業庁 価格交渉促進月間(2026年3月)フォローアップ調査、2026年6月26日公表
54.2%
価格転嫁率(全体)
前回から約1ポイント増
50.0%
うち労務費の転嫁率
原材料費55.7%、エネルギー48.9%

交渉の実施率は9割を超えている。それでも労務費の転嫁は半分だ。つまり「まず交渉しろ」という段階はすでに終わっていて、論点は交渉の中身に移っている。内閣官房と公正取引委員会が2023年11月に公表した「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」は、受注者の行動として、自社の個別原価を開示するのではなく、最低賃金の上昇率や春闘の妥結水準といった公表資料を用いて協議することを挙げている。発注者側にも、定期的に協議の場を設けることや、提示された公表資料を踏まえて協議に応じることを求めている。

これは実務的に大きい。原価を開示せずに交渉できるということは、交渉のカードが「自社の苦しさ」から「公表された社会的水準」に変わるということだ。上に挙げた最低賃金の目安や春闘集計は、そのまま交渉資料になる(価格戦略に財務が入る|値上げ判断を勘でなく利益で決める)。

生産性──計画に書いてよいが、原資には数えない

一人当たり付加価値は、業務の作り替えや投資の効果で確かに上がる。ただし年次で動く幅は数パーセントで、しかも効き始めるのが期の途中からになる。一方の賃上げは4月に確定し、12か月分が満額で乗る。

だから「生産性向上で吸収する」と書いた計画は、金額の桁とタイミングの両方で足りない。生産性は中期の話として計画に書き、単年の原資としては数えない。ここを混ぜると、未達の原因が価格なのか生産性なのか分からなくなり、翌年の計画も同じ形で立つ。

投資・その他固定費──即効性はあるが、翌年の余力を食う

広告費、システム投資、採用、教育。ここを削れば当期の利益は守れる。だがこれは、翌年以降の成長と生産性の原資を前借りしている。ここに寄せた年は、翌年の賃上げ余力がさらに減る。

つまり三つの吸収先には順位がある。価格を最優先で取りにいき、足りない分を投資の抑制で一時的に埋め、生産性は中期の回収に置く。逆順にした会社は、二年目に行き詰まる。

注意
賃上げ促進税制を原資に数えるのは危うい。税額控除は、第一に当期が黒字で法人税額が出ていることが前提であり、賃上げの負担が最も重い会社ほど使えない。第二に効くのは納税の局面であって、賃上げの支払が発生する時点のキャッシュではない。第三に控除率と適用期限は税制改正のたびに動く。使えるなら使えばよいが、利益計画の原資の欄に書き込む性質のものではない。

交渉に持ち込むのは、率の表ではなく感応度の表

労使交渉の資料を「他社水準の一覧」から「感応度のマトリクス」に変える。縦軸に人件費総額の増加率、横軸に価格転嫁率を並べ、交点に営業利益の着地を入れる。売上高100・人件費20・営業利益5(営業利益率5%)の会社で組むと、こうなる。

人件費総額の増加率転嫁0%転嫁25%転嫁50%
2%4.54(▲9%)4.66(▲7%)4.77(▲5%)
3%4.31(▲14%)4.48(▲10%)4.66(▲7%)
4%4.08(▲18%)4.31(▲14%)4.54(▲9%)
5%3.85(▲23%)4.14(▲17%)4.43(▲11%)
6%3.62(▲28%)3.97(▲21%)4.31(▲14%)

営業利益額。カッコ内は現状比の毀損率。法定福利費の乗数1.15、転嫁分は当期中に全額反映と仮定。

この表の読み方は一つしかない。横に一マス動く価値が、縦に一マス我慢する価値より大きい。 転嫁率を0%から50%へ動かせれば、総額5%増でも毀損は23%から11%に半減する。逆に、転嫁がゼロのまま賃上げだけ2%から5%に上げると、営業利益は9%減から23%減へ落ちる。交渉で削りにいくべきは賃上げ率ではなく、横軸のほうだ。前提(人件費総額、法定福利費の乗数、売上高人件費比率、価格改定のタイミング)は表の下に全部書き出しておく。

この一枚があると、交渉の性格が変わる。労使が別々の数字を持ち寄って主張をぶつけるのではなく、同じ表を見て前提のどこが違うかを議論することになる。組合側から「価格転嫁率の前提が保守的すぎる」と指摘されるなら、それは正しい議論だ。実際、転嫁率の前提を1段上げれば、出せる賃上げ率は1段上がる。率だけを言い合う交渉では、そこに到達できない(感度分析とシナリオ分析で投資の不確実性を見える化する)。

現場では
ある部品メーカーで、賃上げの検討が例年どおり2月に始まった。人事案は4.5%。財務が感応度を作ったところ、人件費が営業利益の6.2倍あった。定昇込みの4.5%をそのまま掛けた上限側の試算では、法定福利費まで含めて営業利益の32%に相当する。前期の営業利益率は4.2%で、そのまま出せば3%を割る。ここから議論の形が変わった。まず主要顧客20社の契約更改時期を並べ、4月から9月に更改が来る11社について、最低賃金の目安と春闘集計を根拠資料にした改定申入れを2月中に出すことを決めた。次に、当期の設備投資のうち更新性の低い2件を翌期に送った。そのうえで賃上げは3.8%とし、差の0.7%相当を業績連動の一時金に振り替えた。恒久的な固定費にするか当期限りにするかを、意識して分けた形だ。翌年に効いたのはむしろ副産物のほうで、顧客別の契約更改カレンダーが財務の手元に残った。以後、賃上げの検討は2月ではなく、前年9月の価格方針の決定と同じ場で始まっている。

「いくら出せるか」ではなく「どこから出すか」

賃上げを止められる会社は、もうほとんどない。採用市場でも、最低賃金の下限からの押し上げでも、事実上の下限が毎年切り上がっている。だから問いは「出すか出さないか」でも「いくら出すか」でもなく、「どこから出すか」だ。

そして吸収先の配分は、賃上げの直前に決められる性質のものではない。価格には半年から1年、生産性には数年かかる。賃上げの意思決定を人事のカレンダーに置いている限り、この時間には間に合わない。 価格方針の決定と同じテーブルに、賃上げの感応度を持ち込む。CFOがやるべきことは、率を値切ることではなく、議論の場所と時期を移すことである(事業計画と整合する中期経営計画の数字設計:絵に描いた中計にしないために)。

まとめ
賃上げの検討は率から始めるのではなく、人件費が営業利益の何倍あるかという一行から始める。人件費総額の増加率×人件費総額×法定福利費の乗数(事業主負担でおおむね1.15倍)を営業利益で割れば毀損率が出る。人件費が営業利益の5倍の会社では総額3%増が営業利益の約17%に相当し、8倍の会社では5%増で46%が消える。分子の定義には注意が要る。世間相場の「賃上げ率」は定期昇給込みだが、年齢構成が定常なら定昇は総額として中立なので、定昇込みの率をそのまま掛けると増分の二重計上になる。上限側の試算として定昇込み、本線としてベア+一時金増分+要員構成変動の純増、の二本を出す。感応度には基本給だけでなく、時間外割増単価の上昇、標準報酬月額の改定を通じた社会保険料、最終給与比例の退職金なら退職給付債務への波及も織り込む。次に「5%」の中身を定期昇給・ベースアップ・一時金に分解する。ベースアップは賃金テーブルを恒久的に持ち上げて翌年の賃上げがその上に乗り、一時金は当期限りで戻せる。定期昇給は年齢構成が定常なら中立だが、若返っていれば純減、高齢化していれば純増になる。外部環境は緩んでいない。連合の2026春闘第1回回答集計は定昇込み加重平均で5.26%、300人未満の中小組合でも5.05%、2026年度の最低賃金の目安は全国加重平均で55円(4.9%)の引き上げで1,176円となる水準が7月28日に答申されている。吸収先は価格・生産性・投資の三つしかなく、それぞれリードタイムが違う。価格は効きが最大で、売上高人件費比率20%なら賃上げ5%を値上げ1%強で吸収できる計算になるが、交渉から損益反映まで半年から1年かかるため、今年の賃上げの原資は前年の価格交渉で作られている。中小企業庁の2026年3月フォローアップ調査では価格交渉の実施率は90.7%に達する一方、価格転嫁率は54.2%、労務費に限れば50.0%にとどまる。労務費の転嫁については、内閣官房と公正取引委員会の指針が、個別原価の開示ではなく最低賃金の上昇率や春闘の妥結水準といった公表資料を用いた協議を挙げており、交渉のカードを自社の苦しさから社会的水準へ移せる。生産性は年次で数パーセントしか動かず期中からしか効かないため、中期計画には書いても単年の原資には数えない。投資・その他固定費の抑制は即効性がある代わりに翌年の余力を食う。賃上げ促進税制も、黒字が前提であり効くのは納税局面である以上、原資の欄に書くべきものではない。労使交渉には他社水準の一覧ではなく、人件費総額の増加率×価格転嫁率の感応度マトリクスを持ち込み、前提を全部開示して同じ表を見る。売上高100・人件費20・営業利益5の会社なら、総額5%増でも転嫁率が0%か50%かで毀損は23%と11%に分かれる。削りにいくべきは縦軸の賃上げ率ではなく横軸の転嫁率である。そして賃上げの検討開始を人事のカレンダーから、前年の価格方針を決める場へ移す。

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