稼働から半年、経理の手元にはExcelが戻っている。システムには入っているが、正しい数字はExcelのほうにある。この症状が出ると、たいていの会社は原因を研修不足と診断し、追加の操作研修を組む。出席率は上がる。それでも二重管理は消えない。ユーザーが使わなくなるのは、操作が分からないからではない。標準の伝票フローに乗らない事象が起きたとき、誰に聞けば処理が決まるのかが決まっていないからだ。 操作は覚えられる。覚えられないのは判断で、判断が止まった担当者はExcelに逃げる。

POINT
稼働後の形骸化は、操作研修の量では止まらない。現場が詰まるのは画面の叩き方ではなく、標準フローに乗らない例外——部分納品、遡及値引き、月跨ぎの検収、契約変更に伴う既計上分の訂正——をどの伝票に当てはめるかという判断だ。判断が止まると回避行動が生まれ、一件のExcelが突合を呼び、やがてExcelのほうが正になる。止める手は三つ。①操作手順でなく判断手順を、業務イベントから伝票タイプ・組織単位・承認者までつなぐ分岐表にして渡す。②問い合わせ窓口を情シスやベンダーでなく業務部門のキーユーザーに置き、判断の質問は当日中に暫定回答を返す。③定着を研修受講率でなく、後付けの手入力振替仕訳の件数と調整用Excelの本数で測る。問い合わせが減ったから定着した、とは限らない。

詰まるのは操作でなく、例外の当てはめ

研修が教えるのは、決まった業務を決まった画面でどう入力するかだ。テキストに載っているのは正常系で、演習も正常系で終わる。ところが現場が手を止めるのは、その外側で起きる。

  • 三回に分けて納品されたうち、二回目だけが返品になった
  • 期首に遡って単価を改定し、既に計上した売上を修正する必要が出た
  • 検収が月末をまたぎ、どちらの月の費用にするかで購買と経理の見解が割れた
  • 受け取った入金が前受金なのか手付なのか、契約書の表現からは決めきれない
  • 契約変更で工事の範囲が縮小し、進捗の測り方そのものを変える必要が出た

いずれも「どのボタンを押すか」ではなく「この事象をどの取引として扱うか」の問題で、操作研修の射程の外にある。件数としては全体のごく一部だ。だが詰まった一件が回避行動を作り、回避行動は必ず伝染する。

一件のExcelが、Excelを正にする

回避の始まりはささやかだ。判断がつかない取引を、とりあえずシステムに入れずExcelで管理する。すると月末に、システムの残高とExcelの残高を突き合わせる作業が要る。突合表を作った担当者は、そこに他の例外も足し始める。そのほうが早いからだ。三か月もすると、経理が見ているのは突合表のほうになり、システムは事後的に帳尻を合わせる場所になる。

こうなってからの回復は重い。だから、稼働直後に判断が止まった一件をどう処理するかが、そのまま定着の分岐点になる。データ移行で磨いたマスタが稼働後の運用で崩れるのと、構図は同じだ(SAPのマスタデータを稼働後に劣化させない|登録権限とオーナーシップの決め方)。切替の日にできあがるのは器で、器が使われ続けるかは運用側で決まる。

定着の指標を、研修受講率から入れ替える

多くの会社が定着の指標に置いているのは、研修受講率、eラーニングの修了率、ログイン数といったものだ。これらは「触っているか」を測るが、「逃げていないか」は測らない。入れ替えるなら、逃げの痕跡が出る指標にする。

  • 後付けの手入力振替仕訳(FI直接起票)の件数と金額:業務トランザクションから流れず、経理が直接叩いて帳尻を合わせた量
  • 標準外の一括アップロードの件数:Excelで作った明細をまとめて流し込んだ回数
  • 月次で作られる調整用Excelの本数と作成者:本数より、作成者が増えているかを見る
  • 問い合わせのうち、操作でなく判断に関するものの比率

四つ目には注意点がある。ハイパーケアの出口を「問い合わせ件数が減ったから」で判断する会社は多いが、件数が減る理由は二つある。解決したか、諦めたかだ。判断に関する問い合わせが減り、同時に調整用Excelが増えているなら、後者である。件数の推移だけを見ていると、この反転を見落とす。

教えるのは操作手順でなく、判断手順

対策の一つ目は、渡すものを変えることだ。操作マニュアルとは別に、判断の分岐表を作る。列は、業務イベント/該当プロセス/伝票タイプ/組織単位・勘定/承認者/やってはいけない代替手段。最後の列が効く。「この事象を費用の直接計上で処理してはいけない」「値引きは売上のマイナスで入れず、専用の伝票で処理する」と明示しておくと、現場が思いつきで代替手段を発明しなくなる。

分岐表に必ず載せるべきなのが、Fit-to-Standardの議論で落とした要件だ。アドオンを我慢した箇所には、標準機能でどう回すかという運用回避策が必ずセットになっているはずだが、これがプロジェクトの議事録に眠ったまま現場に渡らない(SAPアドオン(追加開発)をどこまで作るか|Fit-to-Standardの判断基準)。渡らなければ、現場は自分でExcelを作って埋める。落とした要件の数だけ、Excelが生まれる。

判断が止まらない導線を、四つの工程で作る。
STEP 1
例外を洗い出す
標準フローに乗らない事象を業務部門から集める。部分返品、遡及値引き、月跨ぎ検収、契約変更後の訂正など、稼働前のテストで例外扱いにしたものが起点になる
STEP 2
判断手順を分岐表にする
業務イベントから伝票タイプ・組織単位・承認者までを一本につなぐ。Fit-to-Standardで落とした要件の運用回避策も、必ずこの表に載せる
STEP 3
窓口を業務部門に置く
情シスやベンダーでなく、業務部門のキーユーザーを個人名で指名する。判断の問い合わせは当日中に暫定回答を返す
STEP 4
決定を貯めて手順書に戻す
問い合わせと決定をログに残し、四半期ごとに分岐表とマニュアルへ反映する。同じ質問に人によって違う答えが出る状態をなくす
土台土台=判断を下せる人を個人名で置くこと。窓口が部署名のままだと、判断は宙に浮き、現場は待たずにExcelへ逃げる。
定着とは操作の習熟でなく、判断が止まらない状態のことだ。

窓口は情シスでもベンダーでもなく、業務部門に置く

対策の二つ目は、聞く先を変えることだ。稼働後の問い合わせは情シスやヘルプデスクに集める設計が多い。操作の質問ならそれでいい。だが判断の質問を投げると、返ってくるのは「仕様どおりです」か「業務側で決めてください」になる。情シスもベンダーも、業務の当てはめを決める立場にないからだ。決めるべきでない人に決めさせるほうが、統制としても危うい。

だから、判断の窓口は業務部門側に置く。キーユーザーの条件は一つで、伝票を切る人ではなく、切り方を決められる人であること。日々の入力に習熟した担当者を選びがちだが、必要なのは操作の速さでなく、この取引をどう扱うかを決める権限と知識だ。そして部署名でなく個人名で置く。「経理部で対応」と決めた窓口は、忙しい時期に必ず機能しなくなる。

回答の速さも設計に入れる。判断の問い合わせは、結論が出なくても当日中に暫定回答を返す。一週間止まると、現場はその間に自分の回避策を作り、それが定着する。あとから正しい処理を通達しても、動いている回避策は簡単には剥がれない。

決定を貯めて、手順書に戻す

対策の三つ目は、答えを流さず残すことだ。問い合わせと決定をログに残し、四半期ごとに分岐表とマニュアルへ反映する。これをやらないと、同じ質問が毎月来て、答える人によって結論が変わる。似た取引が二通りに処理されている状態は、単なる非効率でなく統制の穴で、内部統制の評価でも承認者や職務分掌の設計とあわせて問われる(SAPの権限設計とSoD(職務分掌)|内部統制を仕組みで担保する)。

ログを貯めるもう一つの効果は、追加開発の要否を実データで判断できることだ。同じ例外が四半期で数十件出ているなら、運用回避策では割に合わない可能性が高い。稼働前の議論では想定件数が読めずにアドオンを見送ることが多いが、稼働後は実績で語れる。

現場では
ある会社は稼働から四か月後、経理が月次で十数本の調整用Excelを回している状態になっていた。追加の操作研修を二度実施したが本数は減らない。問い合わせの中身を分類したところ、操作に関するものは三割で、残りは「この取引をどう入れるか」という判断の質問だった。しかも判断の質問はヘルプデスクからベンダーへ回され、仕様の説明が返ってきて終わっていた。対策として、購買・販売・経理からそれぞれ判断を下せる担当者を一名ずつ指名し、判断の質問はその三名に直接届く導線に変えた。回答は結論が出なくても当日中に暫定を返す運用にした。あわせて、稼働前に例外扱いとして棚上げしていた事象を洗い出し、伝票タイプと承認者まで書いた分岐表を配った。半年後、調整用Excelは数本まで減った。減った理由は現場が操作に慣れたからではなく、詰まったときに聞く先ができたからだった。

定着は、判断が止まらない状態のこと

高い金をかけて入れたシステムがExcelに負けるとき、負けているのは機能ではない。判断の速さだ。Excelには、迷ったらとりあえず書いておけるという強みがある。システムにその余白はなく、決まらない取引は入力できない。だから定着を左右するのは、決まらない取引が出たときに、どれだけ早く決まるかになる。操作研修を三回やるより、判断を下せる人を三人、個人名で置くほうが効く。稼働後に整備すべきなのは、教材ではなく導線だ(SAP移行後の経理運用を内製で回す|ベンダー依存を減らす体制づくり)。

まとめ
稼働後にユーザーがSAPを使わなくなり、Excelの二重管理に戻るのは、操作研修が足りないからではない。研修が教えるのは正常系の入力で、現場が手を止めるのはその外側——部分返品、遡及値引き、月跨ぎの検収、前受金と手付の区別、契約変更に伴う既計上分の訂正といった、どの取引として扱うかの判断だ。件数は少ないが、詰まった一件が回避行動を生み、Excelが一本できると突合が要り、やがてExcelのほうが正になる。止める手は三つ。第一に、渡すものを操作マニュアルから判断の分岐表に変える。業務イベント・該当プロセス・伝票タイプ・組織単位・承認者に加え、やってはいけない代替手段の列を置く。Fit-to-Standardで落とした要件の運用回避策も必ず載せる。渡らなければ、落とした要件の数だけExcelが生まれる。第二に、問い合わせ窓口を情シスやベンダーでなく業務部門に置く。両者は業務の当てはめを決める立場になく、判断の質問には仕様の説明しか返せない。キーユーザーの条件は伝票を切る人でなく切り方を決められる人で、部署名でなく個人名で指名する。結論が出なくても当日中に暫定回答を返す。一週間止まれば現場の回避策が固定し、後から通達しても剥がれない。第三に、定着の指標を研修受講率やログイン数から入れ替える。後付けの手入力振替仕訳の件数と金額、標準外の一括アップロード件数、調整用Excelの本数と作成者、問い合わせに占める判断の比率を見る。判断の問い合わせが減ったのは、解決したからか諦めたからかの二通りがあり、調整用Excelが同時に増えているなら後者だ。問い合わせと決定はログに残し、四半期ごとに分岐表とマニュアルへ戻す。同じ例外が繰り返し出るなら、追加開発の要否を実績件数で判断できる。

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