毎年決まった時期に、保守料の支払い稟議が回ってくる。金額は前年とほぼ同じか、少し上がっている。決裁のどこかで「これは何に使っているのか」と質問が出て、情シスは「サポートを受けるための費用です」と答え、経理は「そういうものか」と押印する。稼働から五年も経つと、実際に問い合わせた件数は年に数件しかない、ということも珍しくない。保守料が無駄になるのは金額が高いからではなく、更新を取り込む工程が社内に無いからだ。 保守契約で買っているのは、障害時の窓口だけではない。標準機能に加わった更新を自社の環境に取り込む権利が含まれている。権利は毎年発生するが、取り込む工程を持っていない会社では、その権利が一度も行使されないまま流れていく。差が出るのは五年目からで、そのときには「取り込まなかった分」が一括で請求される。
保守料で買っているのは、更新そのものでなく「取り込む権利」だ
保守契約の中身は、契約の水準と締結の時期によって変わる。含まれるサービスの範囲も料率の算定基礎も、契約書を読まなければ確定しない。だから金額の妥当性を一般論で語ることに意味はない。ここで扱いたいのは、金額ではなく行使率のほうだ。
保守料の対価は三つに分けて考えるとよい。障害が起きたときの窓口と修正、法制度の変更に対応するための更新、そして機能の追加・改善である。一つ目は使うか使わないかが受け身で決まる。二つ目も、制度対応には期限があるので嫌でも取り込む。問題は三つ目だ。機能の追加は取り込まなくても今日の業務が止まらない。止まらないから後回しになり、後回しにする理由は毎年見つかる。
取り込まない状態が続くと、自社の環境と標準の距離が開いていく。開いた分は消えるのではなく、次に大きく手を入れるときにまとめて精算される。制度対応だけを最小限に当て続けた環境は、五年後には「標準に戻すためのプロジェクト」が必要な状態になっている。保守料を「保険料」だと説明すると社内は納得しやすいが、実態は逆だ。使わなければ使わないほど、後の支出が増える種類の費用である。
追従を止めているのは、アドオンではなく回帰テストの量だ
「アドオンが多いから更新に追従できない」という説明は、半分しか当たっていない。アドオンがあること自体は更新を止めない。止めるのは、更新を当てたときに何が壊れるか分からないという状態だ。
理由ははっきりしている。どのアドオンが標準のどの機能に依存しているかの一覧が無いこと。そして、壊れていないことを確認するためのテストが毎回ゼロから作られていること。この二つが揃うと、更新の適用は毎回フルスクラッチのテストプロジェクトになる。工数が読めないので予算が取れず、予算が取れないので見送られる。
裏を返せば、アドオンが同じ本数あっても、依存関係の一覧とテスト資産を持つ会社は追従できる。現場でアドオンの本数を減らす議論をするとき、本当に減らしたいのは本数でなく依存の見えなさだ。標準の拡張点を使って作られたアドオンと、標準の内部に手を入れて作られたアドオンでは、更新時の危険度がまったく違う。前者は影響範囲が限定され、後者は毎回全部を疑うことになる(SAPアドオン(追加開発)をどこまで作るか|Fit-to-Standardの判断基準)。
追従できている会社が回している、年次の五工程
取り込みを作業に変えるには、工程として固定するしかない。年に一度、決まった時期に決まった手順で回す。
三工程目のテスト資産化が最も効く。回帰テストのシナリオは、導入時のUATで一度作られているはずのものだ。それを検収の証跡としてだけ保管し、次に使える形で残していない会社が多い。テストデータ、実行手順、期待結果の三点セットで保管しておけば、二回目以降の適用工数は大きく下がる(SAPの受入テスト(UAT)で経理は何を見るか|シナリオの粒度とテストデータの決め方)。逆にここを残さなかったプロジェクトは、稼働の瞬間にテスト資産をゼロに戻したことになる。
五工程目は忘れられがちだが、年次サイクルの中で最も金額に効く。標準機能が追いついた領域のアドオンを廃止しないと、アドオンは増えるだけで減らず、そのまま毎年のテスト工数として跳ね返る。年に一度、廃止候補を出す場を持つ。
役割を三つに割らないと、この工程は誰の仕事にもならない
五工程を書いても回らない会社がある。原因は体制だ。「情シスがやる」では決まったことにならない。役割は三つに割る。
| 役割 | やること | 置き場所 | 年間の関わり方 |
|---|---|---|---|
| 更新を読む人 | リリース情報から自社に関わる項目を抜き出す | 情シスまたは運用ベンダー | 年1回、数日 |
| 影響を判定する人 | 抜き出した項目と依存一覧を突き合わせ、テスト範囲を決める | 情シスとアドオンを作ったベンダー | 年1回、一〜二週間 |
| テストを回す人 | 保管したシナリオを実行し、業務として問題ないか判定する | 経理・購買・販売の各部門 | 年1回、部門ごとに数日 |
三つ目を業務部門に置くことが要点になる。更新が問題ないかどうかは、画面が開くかどうかでなく、月次が同じ手順で締まるかどうかで判定されるからだ。情シスだけで完結させたテストは、後から業務側に「挙動が変わっている」と指摘されて結局やり直しになる。
そして三つの役割のうち少なくとも一つは社内に置きたい。全部を外に出すと、取り込むかどうかの判断そのものが外部の見積に依存し、見積が高ければ見送るという結論に収束する(SAP移行後の経理運用を内製で回す|ベンダー依存を減らす体制づくり)。
追従しなかった判断は、何年後にどの費目で跳ね返るか
見送るという判断は、その年の予算では正しく見える。工数が出ない、繁忙期に当たる、今の機能で困っていない。どれも本当だ。跳ね返るのは数年後である。
| 見送った内容 | 数年後に現れる費目 | 出てくる時期 |
|---|---|---|
| 機能更新の取り込み | 標準に戻すための移行プロジェクト費用 | 四〜六年目に一括 |
| 標準に追いついたアドオンの廃止 | 増え続けるアドオンの回帰テスト工数 | 二年目以降、毎年増加 |
| テストシナリオの資産化 | 適用のたびに作り直すテスト設計工数 | 適用のたび |
| 依存関係一覧の整備 | 影響調査という名目の調査費用 | 改修のたび |
| 業務部門のテスト参加 | 稼働後の手戻りと、業務側の不信 | 適用直後 |
一行目が最も重い。制度対応だけを最小限に当て続けた環境は、次の大きな移行で機能差分の吸収と業務の作り直しを同時にやることになる。毎年少しずつ回していた会社は、同じ移行を差分の少ない状態で迎えられる(SAP ERP 2027年問題とは|いつ何を決めるべきか、移行の全体像)。
契約の更改が近い会社は、金額の交渉に入る前に次を確認しておきたい。
- ① 直近3年で、機能更新を本番に取り込んだ回数(制度対応を除く)
- ② 標準機能に追いついたことで廃止できたアドオンの本数
- ③ 現在稼働しているアドオンの本数と、そのうち依存関係が文書化されている本数
- ④ 回帰テストのシナリオが、次回そのまま実行できる形で保管されているか
- ⑤ 更新を読む人・影響を判定する人・テストを回す人が、名前で決まっているか
- ⑥ 契約に含まれるサービスの範囲(自社の契約書の該当条項を実物で確認する)
六番目は必ず契約書の原本に当たる。保守の水準も含まれるサービスも契約の時期によって条件が異なるので、社内の伝聞や過去の稟議書で判断しない。ERPを自社運用で持つかクラウドで受けるかによっても、更新の当たり方と自社側の裁量は変わる(RISE with SAPとオンプレ・自社運用の選択|クラウド移行をどう決めるか)。
保守料の価値は、更新の中身でなく取り込む工程で決まる
保守料に見合う価値を出す方法は、値引き交渉ではない。取り込む工程を社内に作ることだ。順番も決まっている。まずアドオンの依存関係を一覧にする。次に、導入時のテストシナリオを掘り起こして再実行できる形に整える。それから適用の窓を年度計画に先に置き、最後に更新を読む人・影響を判定する人・テストを回す人を名前で決める。この四つが揃った時点で、取り込みは判断から作業に変わる。判断のままにしておく限り毎年「今年は見送る」という結論が出続け、見送った分は数年後に一括で返ってくる。工程を持つか持たないかは、どのERPを選んだかとは別の話でもある(SAP以外のERPという選択肢|自社の規模でSAPが過剰になる分岐点)。作り切る順番は、依存一覧の一枚目から始まる。



