SAP移行が予定どおり本番を迎えられなかった案件を振り返ると、原因はたいてい同じ場所に溜まっている。要件定義でも、アドオン開発でもない。データ移行だ。しかも詰まるのは、日々の伝票のような取引データではなく、その土台にあるマスタ――取引先・品目・勘定科目である。切替の直前になって、ロードが通らない、通っても数字が合わない、という形で表面化する。だが本当の敗因は、そのずっと手前にある。データ移行の成否は、切替直前のロード作業でなく、その半年前に「マスタの品質を誰が持つか」を決めた時点で、ほぼ決まっている。

POINT
移行で止まるのは取引データでなくマスタ(取引先・品目・勘定)だ。マスタは「名寄せ・重複・欠損」という意味のゆらぎを抱え、機械的には直せない。品質確保は切替直前でなく、工程の後ろ(本番ロード)から逆算し、プロファイリング→名寄せ→欠損補完→リハーサルの順で前倒しする。そして品質の責任者はIT部門でなく、マスタの意味を判断できる業務部門である。

なぜ取引データでなく「マスタ」で詰まるのか

取引データ(会計伝票、受発注、入出庫)は、実のところ移行の難所ではない。形式が決まっていて、金額と日付と相手コードが揃っていれば機械的に運べる。厄介なのはマスタのほうだ。マスタには意味のゆらぎがある。同じ取引先が「株式会社◯◯」「◯◯(株)」「マルマル商事」と三通りで登録されている。使われていない品目が何千件も残っている。勘定科目に、もう誰も説明できない補助科目がぶら下がっている。これらは形式的には正しく見えるので、機械は素通りさせる。だが人が見れば、明らかに壊れている。

S/4HANAでは、この問題が構造的に炙り出される。ECCで別管理だった得意先マスタと仕入先マスタが、S/4HANAではBusiness Partner(取引先)に一本化される。片方だけに登録されていた企業、両方に別コードで登録されていた企業――ECC時代は分かれていたから顕在化しなかった重複が、統合の瞬間にすべて衝突する。マスタの汚れは、移行が可視化するのだ。移行アプローチをどう選んでも(S/4HANA移行の3つのアプローチをやさしく比較)、この名寄せと重複整理からは逃げられない。

品質を潰す順番――「後ろの工程」から逆算する

多くの現場が、切替が近づいてからマスタに手をつけて破綻する。正しくは逆で、本番ロードという一番後ろの工程から逆算して、やることを前倒しに並べる。順番を間違えなければ、直前の修羅場はかなり避けられる。

品質は切替直前でなく、本番ロードから逆算して前倒しに潰す。
STEP 1
データプロファイリング
現状のマスタ件数・重複・欠損・使用実績を棚卸し。『何がどれだけ汚れているか』を数字で把握する出発点
STEP 2
名寄せと重複排除
同一取引先・同一品目を一意に束ね、代表レコード(ゴールデンレコード)を決める。ここが最も人手と判断を要する
STEP 3
欠損補完とルール確定
必須項目の空欄を埋め、今後の登録ルール(採番・命名・承認)を先に決める。汚れを二度と生まない歯止め
STEP 4
リハーサル(ドライラン)
本番と同じ手順で試験ロード。エラー率を測り、落ちた原因を潰して再実行。数回繰り返して初めて本番に耐える
土台全工程を貫く土台は業務部門のオーナーシップ。マスタの意味を判断できるのは現場だけで、IT部門やベンダーは代われない。誰が各マスタの品質に責任を持つかを、プロジェクト初期に名前で決める。
直前のロードは結果にすぎない。勝負は半年前の棚卸しと名寄せで、すでについている。

出発点はデータプロファイリング、つまり現状の棚卸しだ。マスタが何件あり、うち重複が何割、欠損がどこに、そして「直近◯年で一度も使われていないコード」がどれだけあるか。これを感覚でなく数字で押さえる。使われていないマスタは、直すのでなく移さない判断ができる。運ぶ量を減らすことが、品質を上げる最短路でもある。

ドライランで「フォールアウト率」を測る

品質が本当に上がったかは、リハーサルで測れる。本番と同じ手順で試験的にロードし、何件が正常に入り、何件が弾かれたか――この**フォールアウト率(脱落率)**を指標にする。

現場では
ある移行では、初回のドライランで取引先マスタのロードが2割近く弾かれた。原因は納税者番号や国コードの欠損、桁数オーバー、参照先マスタの不整合。これを一件ずつ潰し、2回目で数%、3回目で1%未満まで下げてから本番に臨んだ。フォールアウト率を「本番当日に初めて見る数字」にした瞬間、移行は博打になる。**リハーサルは1回では足りない。**回すたびに落ちる件数が減っていく曲線が見えて、はじめて本番のロードが計算できる作業に変わる。

弾かれたレコードを「エラーが出た、直そう」で終わらせないことも大事だ。落ちた原因を分類すると、その多くは特定のパターン(この国だけ番号形式が違う、この事業所だけ命名規則が独自)に集約される。パターンを潰せば、同じ原因の脱落がまとめて消える。個別対応でなく、原因の類型で潰すのが速い。

品質の責任者は、IT部門ではない

最後に、最もつまずく論点を一つ。マスタ品質の責任を、IT部門やベンダーに預けてはいけない。彼らはデータを運ぶことはできるが、「このAとBが同じ会社か」「この補助科目はもう不要か」を判断できない。判断できるのは、日々そのマスタを使っている業務部門――取引先なら債権債務・購買、品目なら生産・在庫、勘定科目なら経理――だけだ。

だからプロジェクトの初期に、各マスタの「品質オーナー」を部門名でなく個人名で決める。誰が名寄せの最終判断を下し、誰が代表レコードを承認するか。ここが空白のまま進むと、名寄せの判断が宙に浮き、結局「全部そのまま運ぶ」に流れる。それは汚れをそのまま新システムに引き継ぐことに等しい。移行を機に勘定科目そのものを設計し直すなら、その論点は別稿で詳しく扱う(SAP移行を機にする勘定科目体系(COA)の再設計)。経理財務が移行にどこまで関与すべきかも、工程ごとに整理した(SAP移行プロジェクトに経理財務はどう関わるべきか)。

まとめ
SAP移行で頓挫の引き金を引くのは取引データでなくマスタだ。マスタは名寄せ・重複・欠損という意味のゆらぎを抱え、S/4HANAのBusiness Partner統合がその汚れを一気に炙り出す。品質確保は切替直前でなく、本番ロードから逆算し「プロファイリング→名寄せ→欠損補完とルール確定→リハーサル」の順で前倒しに潰す。使われないマスタは直さず移さない。リハーサルはフォールアウト率が下がる曲線が見えるまで複数回回す。そして品質の責任者はIT部門でなく、意味を判断できる業務部門――それも個人名で決める。直前のロードは結果にすぎず、勝負は半年前にすでについている。

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