S/4HANAへの移行プロジェクトの第2四半期。マスタ移行のチームから、経理部に一枚の一覧が届く。 得意先と仕入先の組で、住所・税番号・銀行口座が一致しないもの。どちらを正にするか、今月中に回答してほしい。行数は310。 列は、得意先コード、仕入先コード、名称、不一致の項目だけである。経理の担当者はデータ整備の依頼だと受け取り、住所の新しい方を選んでいく。 銀行口座の行で、手が止まる。得意先側の口座は返金の振込先、仕入先側の口座は毎月の支払先で、番号が違う。 片方を正にすると、もう片方の振込をどうするかが決まっていない。この一覧は、データの整理を頼んでいるように見えて、支払先と相殺の決裁を求めている。
一覧の310行は、三種類の判断に分かれる
冒頭の一覧を、不一致の項目で並べ替えてみる。住所、税番号、銀行口座。 見た目は同じ形の行でも、決めていることはそれぞれ違う。
住所の不一致は、まず同じ会社かどうかの確認である。 得意先側は本社の住所、仕入先側は工場の住所で登録されていることがある。これは同じ会社で、どちらかを主にすれば済む。 だが、グループの販売会社を得意先、製造会社を仕入先として持ち、担当者が便宜上互いのコードを参照させていた組も混ざる。これは別の会社で、まとめてはいけない。 名称と住所の見比べでは区別がつかないことがあるので、国税庁の法人番号で照合する(内部取引の消去が毎期ずれる原因は、取引先コードの不統一より伝票の空欄にある)。
税番号の不一致は、請求書の側の問題に直結する。 適格請求書発行事業者の登録番号は、法人であれば法人番号にTを付した形である。得意先側と仕入先側で番号が違うなら、どちらかの登録が誤っているか、そもそも別の会社である。 仕入税額控除の要件に関わるので、ここは購買の担当ではなく経理が確かめる。
銀行口座の不一致が、最も重い。 仕入先側の口座は、毎月の支払に使う口座である。得意先側の口座は、過入金の返金や値引きの返戻に使う口座で、支払の口座と違うことは珍しくない。 変換の後、口座はビジネスパートナーの側でまとめて保守する形になる。同じ取引先の口座として複数の番号が並んだとき、どれを支払に使い、どれを返金に使うかの運用を決めずに移すと、支払担当が口座を選ぶ場面が生まれる。 CVI_LEDHで主にしなかった側の口座がビジネスパートナーに残るかどうかは前提にしない。変換の前に、主にする側のマスタへ支払用と返金用の両方の口座を登録し、用途を区別しておく。 振込先の口座の変更依頼を装った送金詐欺は、まさにこの場面を狙う(なりすまし送金指示から支払担当を守る、経理の運用と権限の組み直し方)。
相殺は、マスタの指標一つで支払処理に入る
三種類の不一致の判断とは別に、一覧には載ってこないが、組ごとに決めておくべきことがある。その会社との債権と債務を、相殺するかどうかである。
SAPでは、得意先マスタに仕入先の番号を、仕入先マスタに得意先の番号を持たせ、会社コードのデータで「仕入先との消込」「得意先との消込」の指標を立てると、支払や督促の自動処理で、同じ相手の債権と債務を差し引いて扱えるようになる。 冒頭の一覧に並んだ組は、互いのコードを参照し合っている組である。そのうち、どの組にこの指標が立っているかを、移行の前に経理が一覧にしたことがある会社は少ない。 指標は、昔の担当者が支払の手間を減らすために立てたまま残っていることが多い。
相殺には、法律の要件がある。民法第505条第1項は、二人が互いに同種の目的を有する債務を負担する場合において、双方の債務が弁済期にあるときに、各債務者はその対当額について相殺によってその債務を免れることができるとしている。 第2項は、当事者が相殺を禁止し又は制限する旨の意思表示をした場合について定めている。自社の債権(自働債権)がまだ弁済期にないなら、マスタの指標で差し引いても、民法の相殺の要件は満たさない。 相殺を制限する約定のある相手との相殺も、指標があるからといって正当化されない。取引基本契約に相殺の条項があるかを、組ごとに確かめる。
もう一つ、製造業で見落とされやすい制約がある。2026年1月1日に施行された取適法(中小受託取引適正化法)の第5条第2項第1号は、有償で支給した原材料等を用いて中小受託事業者が物品の製造等を行っている場合に、中小受託事業者の責めに帰すべき理由がないのに、その原材料等の対価を、それを用いた給付の代金の支払期日より早く支払わせること、又は代金の額から控除することを禁じている。 公正取引委員会の周知資料が「有償支給原材料等の対価の早期決済」として示している行為である。有償支給の相手は、支給材の代金を請求する得意先であり、加工代を支払う仕入先でもある。 まさに冒頭の一覧に並ぶ組である。対象の取引であれば、支払処理の自動の消込で、その支給材を使った製品の代金の支払期日より前に支給材の代金を差し引くことは、この禁止行為そのものである。 対象になるかは、取引が製造委託等に当たるかと、自社と相手の資本金又は従業員数の区分で決まるので、有償支給先の組ごとに判定する。対象の組は自動の消込から外し、支給材を使った製品の代金の支払期日に合わせて精算する運用を、購買部門と決めておく(支払条件の見直し、手形廃止と支払サイト短縮を運転資本で吸収する方法)。
与信をネットで見るかは、相殺できる根拠で決まる
得意先と仕入先が一つのビジネスパートナーにまとまると、営業からたいてい出てくる声がある。 この会社にはこちらも2億円の買掛金があるのだから、売掛金の与信は差し引いて見てよいのではないか、と。
与信の枠をネットで見てよいのは、相手が払えなくなったときに、実際に差し引ける根拠がある場合だけである。 相殺の条項のない相手、相殺を制限する約定のある相手、有償支給先のように相殺の時期に制約のある相手の買掛金は、売掛金の保全にならない。与信限度はグロスで持ち、相殺の条項がある先についてだけ、差し引いた額を与信の会議の参考として並べる。 限度額そのものを買掛金で膨らませない。
S/4HANAの与信管理は、ビジネスパートナーと与信セグメントの単位で限度額を持つ。移行で、得意先ごとにFD32で保守していた限度額を、どう移すかを決めることになる。 ここで、CVI_LEDHが扱うのは得意先と仕入先の組であって、同じ会社を複数の得意先コードで持っていた重複ではないことに注意する。事業所ごとに得意先コードを分け、それぞれに限度額を配っていた会社は、変換の後もその数だけのビジネスパートナーを抱える。グループや同一法人の合計で与信を見たいなら、与信勘定の上位と下位の関係を組む(SAPの与信管理で出荷保留の解除権限を営業に置くと限度額が形だけになる理由)。重複した得意先コードそのものを減らすのは、残高のなくなったコードから稼働後に順に止めていく作業になる。
支払条件は、役割ごとに残る
一つのビジネスパートナーになっても、支払条件が一つにまとまるわけではない。 支払条件は、得意先としての会社コードのデータ、仕入先としての会社コードのデータ、販売や購買の組織ごとのデータに、それぞれ置かれる。入金は月末締め翌々月末、支払は月末締め翌月末、という組み合わせは、統合の後もそのまま残る。
問題が出るのは、相殺する組である。債権と債務の期日がずれていると、どの債権が今月の相殺に入り、どれが来月に回るかが、月によって変わる。 取引先から見ると、振込額が毎月説明のつかない形で増減する。相殺を続ける組については、得意先側と仕入先側の締め日と支払日を揃えるか、相殺の対象を期日の揃う取引に限るかを、変換の前に決めて取引先と合意しておく。 支払処理の例外が毎月同じ顔ぶれで出る会社は、ここで発生源を一つ減らせる(SAPの自動支払処理から支払ブロックと手振込の例外が消えない原因と減らし方)。
新規構築で移行する場合も、判断の中身は変わらない。得意先と仕入先を一つのビジネスパートナーで持つかどうかは、移行データを作る段階で決まる(S/4HANA移行の3つのアプローチ、新規構築・コンバージョン・選択的移行の違い)。コンバージョンでCVI_LEDHの一覧として現れる判断が、新規構築では移行データの設計書の一行として現れるだけである。
売上高2,300億円の化学メーカー(3月決算)。ECCからS/4HANAへのシステムコンバージョンを進めており、得意先は約18,000件、仕入先は約9,700件あった。 変換の準備でCVI_LEDHを流すと、互いを参照し合う得意先と仕入先の組が1,260組出た。住所・税番号・銀行口座のいずれかが一致しない組は310組で、内訳は住所176組、税番号22組、銀行口座112組だった。 移行チームは当初、住所は更新日の新しい方、銀行口座は仕入先側を主にするという規則で一括処理する予定だった。経理部長が、この一覧を移行チームから引き取った。 最初に1,260組を法人番号で照合すると、74組は別の法人だった。グループの販売会社と製造会社を相互に参照させていた組と、社名の似た別会社を担当者が誤って紐づけていた組である。 74組は組を解き、別々のビジネスパートナーとして変換することにした。次に、残る1,186組のうち「仕入先との消込」の指標が立っている組を数えると、140組あった。 取引基本契約を確認すると、相殺の条項があり有償支給の取引がない組は58組だった。31組は、樹脂のペレットを有償で支給して成形を委託している加工先で、支給材の代金と加工代を支払処理で自動的に差し引いていた。 残る51組は、相殺の条項が見つからなかった。58組は指標を残し、51組は指標を外してグロスで決済することにした。 31組の有償支給先は、製造委託に当たるかと資本金・従業員数の区分から取適法の対象かを1組ずつ判定し、対象と判定した19組を含む31組すべてを自動の消込から外し、支給材を使った成形品の加工代の支払日に、その支給材の代金だけを精算する運用に変え、購買部門の請求と照合する手順を作った。銀行口座が一致しない112組は仕入先側を主にすることにし、変換の前に、得意先側にあった返金用の口座も仕入先側のマスタに登録して、支払用と返金用を取引先銀行の区分で分けた。 返金用の口座への振込は、振込の都度、取引先に登録済みの電話番号へ確認する手順を付けた。営業からは、相殺の条項のある58組について与信をネットで見たいという要望が出た。 限度額はグロスで移し、差し引いた額は与信会議の資料に参考として並べる形で決着している。同じ法人番号で複数の得意先コードを持っていた重複は約430件あり、変換では統合せず、与信勘定の上位と下位の関係を組んで法人単位の残高を見られるようにした。 経理部の判断が固まったのは、移行本番の5か月前である。稼働後三か月の間に、相殺を巡る取引先からの問い合わせは2件で、いずれも締め日のずれの説明で片付いた。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。
決めるのは三つ
第一に、ビジネスパートナーへの変換で届く不一致の一覧を、データの整理として返さない。 SAPノート2265093は、S/4HANAではビジネスパートナーが得意先と仕入先のマスタデータを保守する唯一の入口になり、得意先・仕入先統合が移行の前提条件になるとしている。CVI_LEDHは、互いを参照し合う得意先と仕入先の組について、住所・税の情報・銀行データのどちらを主にするかを選ばせる。 住所の不一致は法人番号で同じ会社かを確かめ、別会社の組は解く。税番号の不一致は適格請求書の登録番号と照らして経理が確かめる。銀行口座は、変換の前に主にする側へ支払用と返金用の両方を登録し、用途を分けてから移す。
第二に、相殺の指標を立てる組を、契約と法律の根拠で絞る。 SAPでは、得意先と仕入先に互いの番号を持たせ、会社コードのデータで消込の指標を立てると、支払や督促の自動処理で債権と債務を差し引いて扱える。民法第505条は、同種の債務の双方が弁済期にあるときの相殺を定め、相殺を制限する約定についても規定している。 自社の債権が弁済期前なら、指標で差し引いても相殺の要件を満たさない。取引基本契約の相殺条項を組ごとに確かめる。2026年1月1日施行の取適法第5条第2項第1号は、有償支給する原材料等の対価を代金の支払期日より早く支払わせることや、代金の額から控除することを禁じている。対象かを組ごとに判定し、対象の組は自動の消込から外して、製品の代金の支払期日に合わせて精算する。
第三に、与信はグロスで移し、支払条件は役割ごとに残ることを前提に揃える。 相殺の根拠のない買掛金は、売掛金の保全にならない。SAPノート2270544のとおりFI-AR-CRはSAP Credit Managementに置き換わり、FD32は使えなくなる。 CVI_LEDHは同じ会社を複数の得意先コードで持つ重複を扱わないので、法人単位の与信は与信勘定の上位と下位の関係で組む。支払条件は得意先と仕入先の役割ごとに残るため、相殺を続ける組は、締め日と支払日の揃え方を変換の前に取引先と合意しておく。



