「我が社はROIC経営を導入する」。中期経営計画でそう宣言した会社は、ここ数年で一気に増えた。東京証券取引所が2023年4月に「資本コストや株価を意識した経営」を要請して以降、ROIC(投下資本利益率=投じた元手がどれだけ利益を生んだかを示す指標)を経営目標に掲げる上場企業はプライム市場で約7割に達したとされる。だが現場を歩くと、空気はまるで違う。工場長は「ROICって財務の数字でしょう」と言い、営業課長は「自分の仕事とどう関係するのか分からない」と言う。掲げた言葉が役員会の資料の中で独り歩きし、現場の手は1ミリも動いていない――この断絶こそ、ROIC経営の最大の失敗パターンだ。本稿は、その溝をROICツリーで物理的に埋める手順に絞って書く。
なぜ「ROICを上げろ」では現場が動かないのか
理由は単純で、現場の担当者にとってROICの分母にある「投下資本」が見えないからだ。製造課の班長が旋盤を回しながら「いま自分は投下資本を増やしている」と意識することはまずない。営業担当が受注を取るとき、頭にあるのは売上であって、その売上が回収されるまで何日寝かされる運転資本になるか――は普通、視界に入っていない。
ROICは NOPAT(税引後営業利益)÷ 投下資本 で計算される。この式は経営者の言語であって、現場の言語ではない。だから「ROICを上げろ」という号令は、現場には「景気を良くしろ」と同じくらい抽象的に響く。自分の責任と権限の範囲外にある数字を渡されても、人は本気で動けない。これは精神論ではなく構造の問題だ。実際、ROIC経営の先駆者として知られるオムロンも、2000年代半ばに最初に導入したときは一度失敗したと同社CFOが公言している。優等生でも、最初は現場に刺さらなかったのだ。
ここで多くの会社がやりがちな誤りが2つある。問題は精度でも配分でもなく、翻訳が欠けていることにある。
ROICツリーで「全社の合言葉」を「部門が動かせる数字」に翻訳する
溝を埋める道具がROICツリーだ。ROICを上から順に分解し、最終的に現場が毎日見ている指標まで降ろしていく。まずROICは大きく2つに割れる。稼ぐ力と、資本を回す力だ。この2軸に分けるだけで、議論が一段現場に近づく。
この2つを、現場が手綱を握れる指標までさらに分解していく。左の利益率は原価・販管費から人時生産性や失敗コスト率へ、右の回転率は運転資本(売上債権・棚卸資産・仕入債務)と固定資産(設備回転率・稼働率)へと降りていく。
このツリーの効用は、「ROICを上げる」という一文を各部門の具体的な動作に翻訳できる点にある。営業には「回収サイトを5日縮める」、購買・生産管理には「在庫日数を10日減らす」、製造には「設備稼働率を5ポイント上げる」。これらは全部、最上段のROICと一本の線でつながっている。在庫が減れば運転資本が減り、投下資本が減り、回転率が上がり、ROICが上がる。現場の動作と全社の成果が、初めて因果でつながる。
翻訳をやり切る3つの条件
ツリーを描けば終わり、ではない。図を1枚作って満足した会社ほど、現場は動かない。やり切るには条件がある。そして決定的なのは、翻訳が一度きりの作業ではなく回し続ける運用だという点だ。
第一に、数式ではなく言葉に翻訳する。 オムロンが秀逸だったのは、逆ツリーと並べて「翻訳式」を用意したことだ。数式を使わず、「お客様への価値を上げ、それを生み出す自社の経営資源を効率よく使えば、ROICは上がる」といった日常の言葉でROICの意味を語り直した。現場が腹落ちするのは分数ではなく物語だ。CFOと経理がやるべきは、ツリーの各枝を「この行動が、なぜ、どう効くのか」という一文に翻訳することである。
第二に、KPIを必ず本人の権限の範囲内に置く。 自分でコントロールできない数字を背負わされると、人は「自分のせいじゃない」と本気で取り組まない。営業に在庫日数の責任を負わせても動かない。回収サイトなら動く。ツリーを降ろすとき、最後の一段は「その担当者が自分の判断で変えられるか」で線を引く。降ろしすぎても、止めすぎてもいけない。この線引きは試行錯誤の連続で、一度で正解は出ない。オムロンでさえ2020年末に約6年ぶりにKPIを刷新している。翻訳は一回の作業ではなく、回し続ける運用だ。
第三に、目標値と「どの行動が効くか」をセットで渡す。 「在庫日数を減らせ」だけでは標語の二の舞だ。
ここはCFO部門が現場リーダーと膝を突き合わせて詰める領域で、Excelの中だけでは決して埋まらない。
東証の要請を受けてROICを掲げること自体は、もう差別化にならない。掲げた会社は山ほどある。差がつくのは、その合言葉を在庫日数・回収サイト・稼働率という持ち場の数字にまで翻訳し切り、現場の手を実際に動かせるかどうかだ。ROIC経営の成否は、財務モデルの精緻さではなく、翻訳の執念で決まる。図を描くのは初日の仕事に過ぎない。本番は、その図を現場の言葉に直し、回し続けるところから始まる。
- ROIC経営が現場で止まるのは、分母の「投下資本」が現場に見えず、経営の言語のまま号令をかけているから。失敗の本質は精度でも配分でもなく翻訳の欠如。
- 道具はROICツリー。ROICを「利益率 × 回転率」に割り、回収サイト・在庫日数・設備稼働率という持ち場の数字まで降ろし、全社の成果と現場の動作を因果でつなぐ。
- やり切る条件は3つ。①数式でなく言葉に翻訳/②KPIを本人の権限内に置く/③目標値と打ち手をセットで渡す。
- 翻訳は一度きりでなく回し続ける運用。オムロンでさえKPIを約6年ぶりに刷新している。
- 差がつくのは図の精緻さではなく、現場の言葉に直し回し続ける翻訳の執念。図を描くのは初日の仕事に過ぎない。



