第3四半期のレビューの終わりに、監査法人の主査が一つだけ付け加える。退職一時金の対象者が300人を超えましたね、期末までに原則法への移行を検討してください。 経理部長は、中期計画で人数が増えることは知っていた。知らなかったのは、原則法で計算すると退職給付債務がいくらになるかである。簡便法で計上している負債は、期末の自己都合要支給額そのものだ。 年金数理人に試算を頼むと、返ってくるまでに六週間かかると言われる。決算発表まで、あと十四週。 期初に出した業績予想には、この差額が一円も入っていない。

POINT
簡便法の適用範囲は、企業会計基準適用指針第25号「退職給付に関する会計基準の適用指針」に書かれている。第47項は、簡便法を適用できる小規模企業等とは原則として従業員数300人未満の企業をいうが、従業員数が300人以上の企業であっても年齢や勤務期間に偏りがあるなどにより、原則法による計算の結果に一定の高い水準の信頼性が得られないと判断される場合には簡便法によることができる、としている。 同項は続けて、この従業員数は退職給付債務の計算対象となる従業員数を意味し、複数の退職給付制度を持つ事業主は制度ごとに判断するとし、従業員数は毎期変動することが一般的なので、簡便法の適用は一定期間の従業員規模の予測を踏まえて決定すると書く。第110項は、簡便法の適用は制度ごとに判断されるので、子会社や持分法適用関連会社を含めて連結グループのすべての制度を原則法か簡便法のどちらかに統一する必要はないとしている。そして第111項は片道の規定である。 簡便法から原則法への変更は認められるが、原則法から簡便法への変更は、従業員数の著しい減少や退職給付制度の改訂等で高い水準の信頼性をもって数理計算上の見積りを行うことが困難になった場合、又は退職給付に係る財務諸表項目の重要性が乏しくなった場合を除き、認められないものと考えられるとしている。300人は、超えた瞬間に落ちる崖として書かれてはいない。一方で、一度移ったら戻れない扉としては書かれている。

300人は崖ではなく、監査法人と話を始める目安である

第47項の「原則として」は、二つの方向に読める。300人未満でも原則法を選べるし、300人以上でも年齢や勤務期間の偏りで原則法の計算に一定の高い水準の信頼性が得られなければ簡便法によれる。 そのうえで判断の基礎は、全従業員数ではなく退職給付債務の計算対象となる人数で、しかも制度ごとである。

全社で400人いても、退職一時金規程の対象が正社員の260人なら、数える人数は260人である。 逆に、確定給付企業年金と退職一時金を併せて持つ会社は、制度ごとに対象者を数える。そして第47項の最後の一文により、判断は期末の一時点の人数ではなく、一定期間の従業員規模の予測で行う。3年後に450人を計画している会社が、当期末に310人だから様子を見る、という説明は通りにくい。 逆に、事業の縮小で当期末に310人から来期270人に減る見込みなら、切り替えない説明は立つ。

したがって、切替を迫られる境目は人数そのものではない。計算対象者の人数の予測と年齢・勤続の分布から見て、簡便法の数字では退職給付に係る負債と費用の信頼性が足りないと判断される時点である。 その判断を監査法人と交わすとき、会社の側に原則法との差額の試算がなければ、議論は差額の大きさを知らないまま進む(監査法人の指摘が期末に集中する原因と、四半期ごとに論点を前倒しする方法)。差額が大きいことは、切替を先送りする理由にはならない。

簡便法の負債は、何を入れずに作られているか

第50項は、簡便法での退職給付債務の計算方法を並べている。退職一時金制度では、(1)①原則法で求めた比較指数を期末の自己都合要支給額に乗じる方法、②期末自己都合要支給額に平均残存勤務期間に対応する割引率と昇給率の各係数を乗じる方法、③期末自己都合要支給額をそのまま退職給付債務とする方法の三つ、企業年金制度では年金財政計算上の数理債務を使う方法などである。いったん選択した方法は、原則として継続して適用する。

実務で多いのは③である。③の負債は、全員が期末日に自己都合で辞めたら払う額である。 全員に自己都合の支給率を当て、昇給も割引も織り込まない。原則法の退職給付債務と比べると、入っていないものと、入りすぎているものがある。

入っていないのは二つ。一つは退職事由の差である。 多くの退職金規程は、定年や会社都合の退職に自己都合より高い支給率を置いている。定年まで勤める人の給付は、自己都合の率では測れない。もう一つは将来の昇給である。 給付が退職時の給与や積み上がるポイントに連動する規程なら、原則法は退職時までの昇給を織り込む。

原則法が置く途中退職の見込みは、一つ目の上乗せを打ち消す方向に働く。 定年まで勤めずに辞めると見込まれる人には、上乗せのない自己都合の支給率が当たる。③はもともと全員に自己都合の率を当てているので、途中退職の見込みが③より債務を小さくするわけではない。途中で辞める人が多い会社ほど、上乗せの効きが小さくなる。

入りすぎているのは一つで、割引である。 原則法は将来の支払を期末まで割り引くが、③は割り引かない。

適用指針の設例9は②の計算例を載せている。平均残存勤務期間15年の昇給率係数を1.67535、割引率係数を0.51672として、自己都合要支給額400,000に両方を掛けた346,275を退職給付債務としている。 この二つの係数は、年3.5パーセントの昇給と年4.5パーセントの割引をそれぞれ15年の複利で置いた値と一致する。昇給で約1.68倍に膨らみ、割引で約0.52倍に縮み、差し引きで自己都合要支給額の約87パーセントになる。割引率が昇給率を上回る前提だから、債務は要支給額を下回っている。 割引率がこれより低い環境では、同じ昇給の見込みでも割引の縮みが小さくなり、債務が自己都合要支給額を上回ることがある。 同じ要支給額でも、昇給の見込みと割引の効き方で、債務は上にも下にも振れる。

原則法に移った年に動く金額は、簡便法③の負債と原則法の債務の間にある四つの成分の差し引きである。
定年・会社都合の上乗せ
退職事由別の支給率の差。債務を増やす
+
将来の昇給
給付が給与やポイントに連動する規程で債務を増やす
+
途中退職の見込み
上乗せが当たらない人の分。上乗せを打ち消す
+
割引
支払までの年数と割引率の分だけ債務を減らす
=
切替差額
原則法の退職給付債務 − 期末自己都合要支給額(負の値もありうる)
差額の符号と大きさは、人数だけでは読めない。退職金規程の支給率の段差、昇給の見込み、定年まで勤める人の割合、平均残存勤務期間、割引率の組み合わせで決まる。

切替差額は、数理計算上の差異として薄める前提に乗らない

原則法に移れば、以後に発生する数理計算上の差異は、第35項により発生年度に費用処理するか、平均残存勤務期間以内の一定の年数で按分して費用処理できる。連結財務諸表では、当期に費用処理されない部分をその他の包括利益で認識する。ここで、切替時の差額も同じように按分できると考える会社がある。

第34項は、数理計算上の差異を、年金資産の期待運用収益と実際の運用成果との差異、退職給付債務の数理計算に用いた見積数値と実績との差異及び見積数値の変更等により発生した差異と定義している。計算の方法そのものを簡便法から原則法に替えたことによる差額は、この定義の文言には現れない。 按分を前提に業績予想を組むのは危うく、一時の損益に入る前提で試算しておくのが安全である。

では、どの期の損益に、どう入るのか。企業会計基準適用指針第24号の第8項(1)は、会計処理の対象となる会計事象等の重要性が増したことに伴う本来の会計処理の原則及び手続への変更を、会計方針の変更に該当しない事象として挙げている。 第18項はその場合について、従前の重要性の判断に誤りがない限り過去の財務諸表に遡及的に処理を行う必要はなく、変更の影響額は関連する費用又は収益に含めて処理することになると考えられる、としている。人数の増加で原則法に移る場合がこれに当たるなら、差額は切替の期の退職給付費用に入る。 反対に、簡便法の要件を満たしたまま自ら原則法を選ぶなら、会計方針の変更として遡及適用の論点になる。どちらに当たるかは変更の理由で決まり、損益計算書のどの区分に表示するかと併せて、監査法人と先に詰める論点である(会計方針の変更・見積りの変更・誤謬の訂正の違いと、遡及・開示への影響)。

もう一つ見落としやすいのが、損益の振れ方の性格の変化である。簡便法では、第49項により、非積立型の制度なら期首の負債から支払額を控除した残高と期末の負債との差額がそのまま退職給付費用になる。 昇給も規程の改定も人員構成の変化も、その期の費用に全額入る。原則法に移ると、割引率や昇給率の見積りと実績の差は数理計算上の差異になり、按分を選べば費用は平らになる代わりに、連結の貸借対照表では負債とその他の包括利益累計額が動く(企業年金の積立不足はいつ財務に返ってくるか、確定給付を続けるか移行するか)。割引率については、第30項が、前期末の割引率で算定した退職給付債務と比べて期末の割引率による債務が10パーセント以上変動すると推定されるときは再計算しなければならないとしている。移る前に、割引率を0.5ポイント動かしたときに債務がいくら動くかを、年金数理人の試算に含めておく。

切替の年は選べない。選べるのは、差額を知る時期と織り込み方である

切替の要否と時期は、第47項の信頼性と一定期間の従業員規模の予測で決まる。差額を今期の損益で吸収できるかどうかは、その判断の材料に入らない。 人数の予測が切替を求めているのに、差額が大きいから簡便法のまま締めれば、負債の過少を指摘されうる。会社の裁量が残っているのは、差額をいつ知り、業績予想にいつ織り込み、どう開示するかの側である。 監査法人に言われてから試算を頼むと、差額の大きさを知るのが決算発表の直前になる。順序を逆にする。

第一に、原則法の数字を、社内の試算として先に持つ。 試算を持つこと自体は会計処理の変更ではない。第111項も、数年に一度原則法による計算を行う方法を採用している場合は、原則として継続して簡便法を適用しているものとして取り扱うことが適当としている。毎年でなくてよい。計算対象者が250人を超えた年に一度、その後は人数の計画が変わった年に実施する。

第二に、差額を四つの成分に分けて出させる。 合計だけでは、次の年にどれだけ動くかが読めない。支給率の上乗せが大きく途中退職の少ない会社は、規程を変えない限り差額が人数とともに増える。昇給の成分が大きい会社は、賃上げの年に差額が跳ねる(賃上げの原資をどこから出すか、人件費の上昇を価格・生産性・投資で吸収する)。

第三に、切替が見込まれる期を人数の予測から先に特定し、差額をその期の業績予想に織り込み、開示の仕方を決めておく。 期初に分かっていれば期初の業績予想に入れ、期中に分かったなら、分かった時点で最も早い開示の機会に予想へ反映する。差額は一時差異を増やし、繰延税金資産の回収可能性の判断にも入る(繰延税金資産の回収可能性、業績悪化の期に純利益が大きく振れる仕組み)。期末直前に監査法人から言われて入れる差額と、分かった時点で予想に入れて説明した差額は、同じ金額でも市場への伝わり方が違う(業績予想の出し方、保守的なガイダンスはなぜ自社の評価を下げるのか)。

確認すること根拠判断に使う数字
数える人数の範囲第47項(退職給付債務の計算対象、制度ごと)制度別の計算対象者数と数年先の計画
年齢と勤続の偏り第47項(300人以上でも信頼性が得られなければ簡便法によれる)年齢・勤続の分布と平均残存勤務期間
切替差額の中身第50項(簡便法の計算方法)、設例9支給率の上乗せ、昇給、途中退職、割引の四成分
差額の損益への入り方適用指針第24号第8項(1)・第18項、第25号第34項切替の期の退職給付費用への影響額と表示区分
移行後の振れ幅第25号第30項、第35項割引率0.5ポイントの変動による債務の増減
戻れるかどうか第111項人数の著しい減少や制度改訂の見込みの有無
設例

売上高230億円の業務システム開発会社(東証スタンダード上場、3月決算、日本基準)。退職給付制度は退職一時金のみで、期末自己都合要支給額を退職給付債務とする簡便法を使っていた。 計算対象の正社員は5年前の190人から、当期の第2四半期末に305人となり、当期末に320人、中期計画では3年後に450人を見込んでいる。第2四半期のレビューで、監査法人から人数の予測を踏まえた原則法への移行の検討を求められ、CFOはその週に年金数理人へ試算を依頼した。 12月に返ってきた原則法の退職給付債務は15億2,000万円で、期末自己都合要支給額の見込み12億6,000万円との差は2億6,000万円だった。CFOは合計ではなく内訳を出させている。 定年と会社都合の支給率の上乗せが3億1,000万円、将来の昇給が1億9,000万円、途中退職の見込みによる上乗せの打ち消しがマイナス9,000万円、割引がマイナス1億5,000万円。同社は若い社員が多く、平均残存勤務期間が長いぶん割引が効く一方、ポイント制の規程で昇給の成分が大きかった。 差額2億6,000万円は、期初に開示した通期の営業利益の予想18億円の14パーセントに当たる。人数の予測から見て、切替を翌期に延ばす説明は立たなかった。 CFOは当期末で原則法に切り替える方針を監査法人と合意し、協議では、人員規模の拡大で重要性が増したことによる変更として過去の期には遡らず、影響額を当期の退職給付費用に含めること、表示の区分、注記の書き方を期末前に固めた。差額の額が固まった時点で、第3四半期の決算発表にあわせて通期の業績予想を修正し、修正の理由として退職給付の計算方法の切替と影響額を説明している。 あわせて年金数理人の試算に、割引率を0.5ポイント下げた場合を加えさせた。債務の増加は約8,000万円で、債務15億2,000万円の約5パーセント。第30項の10パーセントの目安に届かない水準であることを確かめたうえで、割引率の見直しを期末の定例の工程に入れた。 事後に社内で決めたことは二つある。計画上の計算対象者数と原則法の試算を毎年の予算編成の資料に並べ、切替が見込まれる期の予想には期初から差額を入れること。 そして、子会社3社のうち計算対象者が最も多い会社で、200人を超えた年に同じ試算を行うことである。

※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。

決めるのは三つ

第一に、300人を崖として扱わず、制度ごとの計算対象者と一定期間の人数の予測で判断する。 企業会計基準適用指針第25号第47項は、簡便法を使える小規模企業等を原則として従業員数300人未満とし、300人以上でも年齢や勤務期間の偏りで原則法の計算に一定の高い水準の信頼性が得られない場合は簡便法によれるとする。数える人数は退職給付債務の計算対象で、制度ごとに判断し、一定期間の従業員規模の予測を踏まえて決める。 第110項により連結グループ内で方法を統一する必要はない。一方で第111項により、原則法から簡便法へは、人員の著しい減少や制度の改訂等で見積りが困難になった場合か、重要性が乏しくなった場合を除き戻れない。

第二に、原則法の数字を社内で先に持ち、差額を四つの成分に分ける。 簡便法③の負債は全員が期末に自己都合で辞めた場合の額で、定年・会社都合の支給率の上乗せと将来の昇給が入らず、割引が入らない。途中退職の見込みは上乗せを打ち消す方向に働き、③より債務を小さくするものではない。設例9の係数1.67535と0.51672は年3.5パーセントの昇給と年4.5パーセントの割引を15年複利で置いた値に一致し、債務は自己都合要支給額の約87パーセントになるが、割引率がより低い環境では債務が要支給額を上回ることがある。 数年に一度原則法で計算する方法は、第111項により原則として継続して簡便法を適用しているものとして取り扱われる。

第三に、切替の年は基準で決まる前提に立ち、差額を業績予想に織り込む時期と開示の仕方を自分で決める。 差額を損益で吸収できるかは切替の根拠にならず、人数の予測が切替を求めているのに簡便法で締めれば負債の過少を指摘されうる。第34項の数理計算上の差異の定義に計算方法の変更は現れず、按分を前提にするのは危うい。 適用指針第24号第8項(1)は重要性が増したことに伴う本来の会計処理への変更を会計方針の変更に該当しないとし、第18項はその場合に従前の重要性の判断に誤りがない限り遡及せず、影響額を関連する費用又は収益に含めて処理するとしている。表示区分と併せて監査法人と先に詰め、移行後の割引率の振れ幅も移る前に試算する。

まとめ
切替の年は損益の都合で選べないが、差額を知る時期は選べる。計算対象者が増えてきたら、原則法の数字を社内の試算として先に持ち、差額を四つの成分と割引率の振れ幅に分けて出させる。人数の予測から切替の期が見えたら、差額の表示区分と会計方針の変更としての扱いを先に固め、分かった時点で最も早い業績予想の開示に織り込む。

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