入社十年目の主任が辞める、と課長から報告が上がる。二年前も同じ学年が一人抜けている。人事に相談すると、まず処遇を見ようという話になり、経理職の給与レンジを一段上げる稟議が回る。翌年、今度は別の中堅が辞める。給与の議論に落とした時点で、この件は打ち止めになっている。 若手が辞めるのは作業ばかりだからで、五十代が辞めるのは処遇と役職の見通しが立たないからである。中堅だけは、理由の場所が違う。
辞める理由は、年齢階級で入れ替わっている
離職対策の議論が処遇に寄るのは、退職面談で最も多く出る言葉が待遇だからである。だが辞める側にとって、待遇は最も説明しやすい理由でもある。統計を年齢で割ると、順位が入れ替わる。
雇用動向調査の男性の数字で追うと、「給料等収入が少なかった」は25〜29歳で16.9%と最高になり、30〜34歳11.7%、35〜39歳11.8%、40〜44歳10.5%と落ち着く。45〜49歳で14.3%に戻るのは、役職と処遇の頭打ちが見え始める層だからだと読める。山が二つある。二十代の山と、四十代後半の山である。
その谷にあたる35〜39歳で唯一突出しているのが「能力・個性・資格を生かせなかった」の7.9%である。男性計は3.8%だから、二倍を超える。20〜24歳は1.6%、25〜29歳は4.7%、30〜34歳は3.6%、40〜44歳は3.6%。この層だけが、能力の使われ方を理由に辞めている。 加えて30〜34歳の「会社の将来が不安だった」14.9%も、男性計7.4%の二倍にあたる。
繰り返すが、これは経理職の統計ではない。ただ、経理という職種の構造を重ねると、増幅される理由のほうが多い。経理の中堅は、月次を回す実務の中心にいて、監査法人からも他部門からも名指しで呼ばれる。責任の所在としては既に前面に出ている。にもかかわらず、金額の水準を決める権限だけが上に残っている。 責任と決裁のずれが最も大きくなる位置に、ちょうどこの層がいる。
責任だけが先に来て、決裁が来ない
中堅の一日を工程で書き出すと、判断を含む作業が三種類に分かれる。
第一に、会計上の見積りの水準である。貸倒引当金の算定率、賞与引当金の見積り、棚卸資産の評価減の判定、繰延税金資産の回収可能性のスケジューリング。基礎データの収集も計算も分析も中堅が行う。しかし率を最終的に決めるのは上位者で、しかも根拠は中堅が作った資料しかない。実質的に決めているのに、決めていないことになっている。
第二に、監査法人との折衝である。往査中の質問に一次回答をするのは中堅だが、回答を確定する場に同席していないことが多い。監査法人から見れば数字の説明ができる相手は中堅であり、社内から見れば折衝の当事者は課長である。説明できる人と、答えを持つ人が分かれている。 この状態が続くと、中堅は自分の仕事を「材料を出す仕事」だと定義するようになる。
第三に、業務手順の変更判断である。締めの工程を一本入れ替える、証憑の受領経路を変える、システムの入力ルールを直す。いずれも影響範囲は限定的だが、変更の可否を判断する場所が定まっていない会社が多い。結果として、変更提案は上申され、上申先で滞留し、翌期も同じ手順が残る。改善提案が三回続けて止まった時点で、提案そのものが止まる。
三つに共通するのは、金額の大小ではなく決めた記録が残らない構造である。決裁の記録がないから、経験として棚卸せない。転職の面接でどこまで自分が決めていたかを問われたときに、答えられるものがない。社内で「まだ早い」と言われ続けた期間は、社外では空白として読まれる。
委任が禁じられているのは、七項目しかない
権限移譲の議論が止まる典型的な理由は、法令上できないという説明である。範囲を正確に見ておく。
会社法第362条第4項は、取締役会設置会社の取締役会が 「次に掲げる事項その他の重要な業務執行の決定を取締役に委任することができない」 として七項目を挙げる。重要な財産の処分及び譲受け、多額の借財、支配人その他の重要な使用人の選任及び解任、支店その他の重要な組織の設置、変更及び廃止、社債を引き受ける者の募集に関する重要な事項として法務省令で定める事項、取締役の職務の執行が法令及び定款に適合することを確保するための体制その他業務の適正を確保するために必要なものとして法務省令で定める体制の整備、そして第426条第1項の規定による定款の定めに基づく第423条第1項の責任の免除である。
引当金の算定率も、監査法人への回答も、締めの工程の変更も、ここには一つも入っていない。 これらが取締役会から降りてこないのは、会社法の制約ではない。
さらに、監査等委員会設置会社であれば第399条の13第5項が、取締役の過半数が社外取締役である場合に、取締役会決議によって重要な業務執行の決定を取締役に委任できるとし、同条第6項は、その旨を定款で定めることができるとしている(いずれも同条第5項各号に掲げる事項を除く)。制度の側は、委任の幅をむしろ広げる方向で整備されている。
したがって、経理の中堅に決裁が降りない理由は一か所にしかない。職務権限規程である。 多くの会社の職務権限規程は、決裁者を役職名で書いている。課長、部長、担当役員。この書き方をしている限り、権限は役職に紐づくので、昇格するまで一切降りてこない。権限移譲が昇格の別名になっている。 そして昇格の枠は組織の形で決まるため、本人の力量と無関係に空きが出ない。
役職ではなく、案件で渡す
内部統制の側から見れば、権限を役職に紐づける必然性はない。統制活動に含まれるのは「権限及び職責の付与」と「職務の分掌」であって、付与の単位が役職でなければならないとは書かれていない。実務で機能するのは、案件の属性で範囲を切る方法である。
見積りであれば、論点の種類と金額の閾値で切る。たとえば、算定方法が前期から変わらず、金額が一定額を下回り、監査法人から前期に指摘を受けていない見積り項目については、中堅が水準を決めて記録し、上位者は月次のレビュー会で結果を確認する。方法を変える年、閾値を超える年、前期に指摘のあった項目は、従来どおり上位者が決める。渡しているのは金額ではなく、判断の型が確立している領域である。
監査法人との折衝であれば、論点の段階で切る。事実確認と資料提出の範囲は中堅が確定し、会計処理の是非に関わる論点だけを上位者に上げる。往査の初日に、どの論点は誰が答えるかを一枚で共有しておく。同席させるだけでは渡したことにならない。回答を確定する権限を、範囲を区切って渡す。
業務手順の変更であれば、影響範囲で切る。部門内で完結し、勘定科目の使い方を変えず、他部門への依頼事項が増えない変更は、中堅が決めて手順書を改訂し、事後に部内で共有する。他部門やシステムに波及するものだけを上申する。判断の場所を先に決めておけば、提案の滞留はほとんど消える。
いずれも共通するのは、上位者が手放すのは決定であって、監督ではないという点である。改訂された内部統制の基準が統制活動と並べているのは「職務の分掌」であり、決定と検証を同じ人が持たない設計そのものは崩さない。渡すのは決定、残すのは事後のレビューと範囲の設定である。
棚卸しは、稟議と議事録から行う
権限移譲を宣言だけで終わらせないために、着手時にやることは一つしかない。過去一年の決裁記録を、実際に誰が決めたかで並べ直す。
材料は社内にある。稟議書、部内会議の議事録、監査法人とのやりとりのメール、決算の完了報告。これらから、判断が発生した事項を抜き出し、三つの列を作る。論点/資料を作った人/決めた人。 三列目と二列目が別人になっている行を数える。この行数が、責任と決裁のずれの実測値である。
次に、その行を四つに仕分ける。第一に、法令や社内規程で上位決裁が必要なもの。第二に、金額や不確実性から見て今も上位決裁が妥当なもの。第三に、慣行だけで上位に残っているもの。 第四に、そもそも誰が決めるべきか定まっていないもの。三番目と四番目が、その期に渡せる候補である。
多くの部署で、第三の区分が想定より厚い。上位決裁である理由を聞くと、前任者がそうしていたから、という答えが返る。規程に書かれていない上位決裁は、記録が残らないぶん、渡すのも取り消すのも容易である。 そして四番目、誰が決めるべきか定まっていない事項は、渡す以前に決裁者を書くだけで滞留が止まる。
仕分けができたら、職務権限規程の書き方を変える。役職名の列の隣に、案件の属性を書く列を足す。同じ「引当金の算定率の決定」でも、方法変更を伴う場合は部長、伴わず閾値内であれば主任、という形になる。改訂は年に一度でよい。ただし、改訂した規程に沿って実際に決裁が降りたかを、翌期に同じ方法で実測する。 規程だけ直して運用が前のままだった年が一度あると、次の改訂は誰にも信じられなくなる。
決めるのは三つ
第一に、責任と決裁のずれを、記録から実測する。 稟議書、部内会議の議事録、監査法人とのやりとり、決算完了報告から、判断が発生した事項を抜き出し、論点・資料を作った人・決めた人の三列で並べる。二列目と三列目が別人になっている行数が、その部署のずれの大きさである。印象で議論を始めると、必ず処遇の話に戻る。先に数える。
第二に、渡す単位を役職ではなく案件の属性にする。 会社法第362条第4項が取締役会からの委任を禁じているのは七項目で、引当金の算定率も監査法人への回答も締め工程の変更もそこには含まれない。降りてこない理由は法令ではなく、決裁者を役職名だけで書いている職務権限規程にある。規程に案件属性の列を足し、算定方法の変更の有無、金額の閾値、前期の指摘の有無といった条件で決裁者が変わる形にする。権限移譲が昇格の別名になっている限り、組織の空き枠が出るまで誰も何も決められない。
第三に、渡すのは決定であって、監督ではない。 改訂された内部統制の基準は、統制活動に権限及び職責の付与と職務の分掌が含まれるとしている。決定と検証を同じ人が持たない設計は崩さず、上位者には範囲の設定と事後のレビューを残す。中堅に渡すのは判断の型が確立している領域で、方法を変える年と閾値を超える年は従来どおり上位者が決める。
そのうえで、改訂した規程どおりに決裁が降りたかを翌期に同じ方法で実測する。令和6年雇用動向調査で35〜39歳男性の「能力・個性・資格を生かせなかった」が7.9%と男性計3.8%の二倍を超えているのは、能力が足りない人が辞めているのではなく、使われ方に納得できない人が辞めていることを示している。 規程を直しただけで運用が前のままだった年があると、次の改訂は誰にも信じられない。



