「来期、2名増やしたい」。この要求に対して、多くの会社が実際に使っている判断基準はひとつしかない。人件費が前年比で何パーセント増えるか、である。総額の枠に収まれば通り、外れれば削られる。そして枠の中では、稟議を書き慣れた部署と、会議で粘る部長のいる部署が先に取る。増員の判断が感覚になるのは、経営に判断力がないからではない。人件費を勘定科目としてしか持っていないからだ。 給与手当・賞与・法定福利費・派遣費という並びは、支払形態で切った軸である。誰が何人いて何をしているかという要員計画とは、一度も交わらない。
総額で管理している限り、部署間の比較はできない
人件費を総額で持つ会社では、増員の議論が必ず同じ形になる。「うちは残業が多い」「他部署より一人当たりの売上が高い」。どれも本当かもしれないが、比較の土俵がない。総額は結果であって、原因の分解を持っていないからだ。
期末に「人件費が予算を8パーセント超過した」と分かったとして、原因は三つのどれかである。人を採りすぎたのか(要員数)、想定より高い人を採ったのか(単価)、それとも予定より早く入社したのか(稼働月)。総額しか持っていないと、この三つが混ざったまま「採用が想定を上回ったため」という一行で片付く。翌期も同じ精度で予算を組み、同じ理由で外す。
三変数に割ると、責任の置き場所も自然に分かれる。要員数は事業部門と経営、単価は人事、稼働月は採用の進捗管理。ひとつの箱に押し込んでいるうちは、誰も自分の変数として責任を持てない。
増員1人の値札を、稟議が上がる前に固定しておく
単価に年収を使ってはいけない。会社が実際に負担している額は、年収よりはるかに大きいからだ。
令和8年度の料率で組み立てると、東京の協会けんぽに加入する40歳未満の従業員の場合、標準報酬に対する会社負担は次のようになる。厚生年金保険料9.15パーセント(保険料率18.3パーセントの労使折半。この率は平成29年9月分から固定されている)。健康保険料4.925パーセント(協会けんぽ東京支部の令和8年度料率9.85パーセントの折半)。子ども・子育て支援金0.115パーセント(協会けんぽの令和8年度支援金率0.23パーセントの折半。令和8年4月分から徴収が始まった新しい負担で、前年の係数を使っている会社は取りこぼしている)。子ども・子育て拠出金0.36パーセント(全額が事業主負担)。雇用保険料0.85パーセント(一般の事業の料率13.5/1000のうち、事業主負担分8.5/1000)。労災保険料0.3パーセント(その他の各種事業の3/1000で、令和8年度は据え置き)。合計しておよそ15.7パーセントになる。介護保険の対象となる40歳以上なら、東京支部の介護保険料率1.62パーセントの折半でさらに0.81パーセントが乗る。
年収600万円の人を1人採れば、法定福利費だけで年間90万円台が別に出ていく計算になる。ここに、採用にかかった費用、初年度の教育と受入れ側の工数、PCとソフトウェアライセンス、席と通勤費、退職給付の当期負担が積み上がる。この積み上げを等級ごとに一度だけ計算し、「等級Cの1人年あたり社内原価はいくら」という形で固定しておく。 稟議のたびに担当者に計算させると、必ず年収だけの数字が出てくる。しかも部署によって積み方が違い、比較できない。
一点補足しておく。厚生年金の標準報酬月額には上限が設けられているため、高年収層になるほど実効の負担率は下がる。全社平均の係数を一律に当てると、高年収の増員では負担を過大に見積もることになる。等級別に持つべき理由はここにもある。
稼働月を無視した稟議は、当期の枠で通って翌期に効く
三つ目の変数、稼働月が最も軽く扱われる。10月入社の1人は当期のP/Lには6か月分しか乗らない。だから当期の枠には収まる。だが翌期はフルで乗る。増員の稟議は、実質的に翌期の固定費を決めているのに、判断は当期の枠に収まるかどうかで行われている。
この非対称は、期の途中から採用を積み増す会社ほど効く。当期は各月の枠に収まり続け、翌期の期首でいきなり人件費が跳ねる。そして翌期の予算編成では「前年並みに抑える」という指示が出て、採ったばかりの人がいる状態で採用が止まる。人員構成が年ごとに波打ち、育成の計画も崩れる。
対策は単純で、増員稟議に通期換算額を必ず併記させることだ。当期影響額と、翌期にフルで乗ったときの年額。この二つを並べただけで、通る稟議の数は目に見えて減る。
増員要求を三つに仕分ける
すべての増員要求を同じ物差しで測ろうとするから、基準が決まらない。要求には性質の違う三種類が混ざっている。
欠員補充。 退職・休職で空いた席を埋める要求。ここでいちばんやってはいけないのが、無条件で承認することだ。人が抜けた月に何が落ちたかは、平時には絶対に手に入らないデータである。落として困らなかった作業は、平時から要らなかった可能性が高い(属人化した決算を組織知に変える 担当者が辞めても締まる引き継ぎ設計)。補充の稟議には「この2か月で止めた作業と、その影響」を書かせる。それでも要るなら補充する。
業務量増。 売上や取引件数の増加に伴う要求。これは生産性の議論に落とせる唯一の型で、単位あたり工数×見込み量で語れる。ここで問うべきは「何人要るか」ではなく「1件あたりの工数は去年と同じでよいのか」だ。同じ工数を前提にした増員要求を通し続けると、業務量に比例して人が増える構造がそのまま固定する(経理業務のBPR:付加価値を生まない作業を見つけて止める業務再設計)。
新規の打ち手。 新規事業、新しい機能、体制の強化。ここだけが本来の投資判断の対象になる。そして三種のうち、稟議の書き方がいちばん上手いのもここだ。
- ① 三区分のどれか(欠員補充/業務量増/新規の打ち手)。混ぜて書かない
- ② 等級と、その等級のフルコスト単価。社内で固定した係数をそのまま使う
- ③ 入社見込月と、当期影響額・通期換算額の両方
- ④ 増員後に何が変わるか。売上増なら金額と時期、工数削減なら「止める作業の名前」
- ⑤ 増員しなかった場合に起きること(残業増、納期遅延、失注の見込み額)
- ⑥ 見直しの時期と、そのときに見る数字
④の書き方が判定を分ける。「業務効率が向上する」で通してはいけない。工数削減で回収すると書かれた稟議は、ほとんど回収されない。空いた工数が別の作業で埋まるからだ。回収を主張するなら、止める作業を名指しさせる。名指しできないなら、それは回収ではなく余力の話であり、投資としては測れない。
増員は、取り消せない投資として測る
新規の打ち手としての増員は、設備投資と同じ型で測れる。増分の粗利または削減コストを分子、フルコスト単価を分母に置いて回収期間を出す。指標そのものの使い分けは投資判断の議論と変わらない(投資判断でNPV・IRR・回収期間をどう使い分けるか:3指標の落とし穴と併用ルール)。
違うのは、ハードルの置き方だ。設備は期待外れなら止められる。稼働を落とし、除却し、最悪でも償却が終われば消える。人はそうならない。採用した瞬間から毎月の固定費になり、期待した成果が出なくても半年や1年では戻せない。取り消しにくさの分だけ、回収期間のハードルは設備投資より厳しく置く。 設備で3年を許容している会社なら、増員は1年から1年半で見る。これは人を軽く扱う話ではなく、逆である。回収の見込みが薄いまま採られた人ほど、入社後に居場所を失う。
もうひとつ、増員と同じ土俵に載せるべき選択肢がある。既存メンバーの処遇改善、外注、業務そのものの削減、自動化。どれも「フルコストで年いくらか」に換算すれば横並びで比較できる。増員だけが単独で稟議に上がる会社では、この比較が一度も行われない。処遇改善で1人の離職を止めるほうが、採用して育てるより安いことは珍しくない。賃上げの原資をどこから捻出するかという議論も、この土俵の上でしか噛み合わない。
「認める/認めない」でなく「いつ見直すか」を決める
増員の稟議を承認か却下かの二択にしている限り、判断は重くなりすぎる。重い判断は先送りされるか、政治で決まる。
代わりに置くべき第三の選択肢が、期限付きの承認である。「12か月後に、この数字がここに届いていなければ体制を見直す」。何を見るかを稟議の時点で書かせておけば、見直しは人事評価ではなく計画の検証になる。やりっぱなしを止めるという意味で、投資の事後レビューと発想はまったく同じだ(投資後のレビュー(ポストオーディット)を仕組みにする:やりっぱなし投資を止める)。
人件費の管理会計というと、部門別に配賦してP/Lを作る話だと受け取られやすい。だが配賦の精度をいくら上げても、増員の判断は一ミリも良くならない。効くのは、要員数と単価と稼働月を別々に持つこと、単価に本当の値札を付けること、要求を三つに仕分けること。どれも来期の予算編成に間に合う。



