取締役会で中期経営計画の数字を説明した後、社長がCFOに言った。「IFRSにすれば、営業利益が40億円増えるんだろう。なぜやらないのか」。 その会社は7年前に海外の同業を800億円ののれんを伴って買収し、20年で償却している。償却費は年に40億円で、営業利益の310億円に対して1割を超える。証券会社の担当者も、買収を続けるならIFRSのほうが見栄えがよいと勧めていた。CFOは、移行に反対ではなかった。ただ、40億円という数字だけで決めることには引っかかりがあった。 増えた利益を、いつか別の形で返すことになるのではないか。その感覚を、数字で社長に説明できていなかった。
消えるのは将来の償却だけで、過去の償却は戻らない
社長の言う40億円は、計算としては正しい。移行すれば、その年から償却費は出なくなる。見落とされやすいのは、移行した時点ののれんの金額である。
IFRSを初めて適用する会社は、移行日より前の企業結合を、IFRSでやり直さなくてよい。初度適用の基準(IFRS第1号)が、その免除を認めている。多くの会社がこの免除を使う。使った場合、のれんは、移行日の時点の日本基準の帳簿価額を引き継ぐ。冒頭の会社なら、800億円から7年分の償却280億円を引いた520億円が、IFRSでののれんになる。 過去に費用にした280億円は戻らない。
引き継いだのれんは、移行日の時点で、兆候の有無にかかわらず減損のテストを受ける。ここで回収可能価額が520億円を下回っていれば、移行と同時に減損が出る。日本基準では、兆候があり、割引前の将来キャッシュ・フローが帳簿価額を下回ったときに初めて減損を認識する。IFRSは、割り引いた後の回収可能価額と帳簿価額を毎年直接比べる。同じ事業でも、IFRSのほうが減損は早く出る。
移行した後は、差が年ごとに開いていく。日本基準なら、のれんは毎年40億円ずつ減り、5年後に320億円になる。IFRSでは520億円のまま残る。5年間で、IFRSの営業利益は累計で200億円多い。
その5年後に、買収した事業の価値が下がったとする。回収可能価額が400億円になった場合、IFRSでは120億円の減損が出る。日本基準の帳簿価額は320億円で、回収可能価額を下回っていないので、減損は出ない。回収可能価額が300億円まで下がれば、IFRSでは220億円の減損になる。日本基準で減損を認識するとしても、320億円との差の20億円である。
IFRSで増える利益は、事業が買収時の見込みどおりに稼ぎ続ける限りの利益である。 見込みが崩れれば、積み上がった差額を一度に返す。しかもIFRSでは、のれんの減損は後で事業が回復しても戻し入れができない。償却には、買収の前提が少しずつ崩れていくのを毎年の費用で吸収する働きがあった。移行すると、その吸収がなくなる。買収した事業の前提を四半期ごとに確かめる仕組みを持たない会社は、移行の前にそれを作る必要がある(のれんの減損は兆候で管理する、M&A後にCFOが四半期ごとに見る指標)。
もう一つ、利益が増えない場合がある。買収のときに顧客との関係や技術を無形資産として識別すると、その償却はIFRSでも続く。のれんが減って無形資産が増えるほど、償却がなくなる効果は小さくなる(PPAで識別した無形資産の償却は買収後の利益をどれだけ削るか、意向表明の前に試算する手順)。
移行の費用は、初年度の後も毎年続く
移行の見積りは、準備の2年から3年の費用で語られやすい。会計方針の書き換え、グループ各社の報告様式の変更、システムの改修、監査法人の移行の監査である。初めてのIFRSの財務諸表には、前の年度の比較情報と、移行日の時点の財政状態計算書が要る。3月決算の会社が2029年3月期から適用するなら、移行日は2027年4月1日になる。その日の残高をIFRSで作れるように、適用の2年前には方針が固まっている必要がある。
続く費用のほうは、見積りから漏れやすい。主なものは三つある。
一つ目は、帳簿が二つになることである。 連結をIFRSにしても、会社法の単体の計算書類と税務申告は、日本基準の数字で作り続ける。国内の子会社も同じである。差異のある取引は、二つの基準で記帳するか、連結の段階で組み替えるかを、毎期続ける。システムで元帳を分けて持つなら、その維持の負担も毎年かかる(SAPの複数元帳は税務簿価のために増やさない、元帳を分けるべき評価の条件)。
二つ目は、人である。 連結財務諸表規則は、IFRSで連結財務諸表を作る会社に、二つのことを求めている。有価証券報告書に連結財務諸表の適正性を確保するための特段の取組を記載していること。そして、IFRSに関する十分な知識を有する役員または使用人を置き、適正に作成できる体制を整備していることである(第1条の2)。移行のときに外部の支援で乗り切っても、基準の改訂は毎年ある。2027年1月以後に始まる年度からは、損益計算書の区分を改めるIFRS第18号の適用も控えている。読み解いて自社の処理を決める人を、社内に持ち続けることになる。
三つ目は、のれん以外の差である。 収益の認識とリースは、日本基準の側が改正されてIFRSに近づいた。それでも差は残る。一定の要件を満たした開発費はIFRSでは資産に計上し、未消化の有給休暇は負債に計上する。のれんで増える利益の一部は、こうした項目で減る。試算は、のれんだけでなく差異の全体で行う。
判断の軸は、海外の同業と同じ物差しで比べられる必要があるかである
では、何で決めるか。会計基準は、投資家が会社を比べるための物差しである。 移行に価値があるのは、いまの物差しのせいで、比べられたい相手と比べてもらえていない場合である。
確かめることは三つある。
一つ目は、比べられている相手である。 アナリストのレポートと、投資家との面談の記録を読み、自社が並べられている会社を10社挙げる。そのうち何社がIFRSか米国基準かを数える。あわせて、比べられている指標を見る。EV/EBITDAのように償却前の数字で比べられているなら、のれんの償却は評価にほとんど影響していない。営業利益率や一株利益で比べられているなら、償却の分だけ低く見えている。
二つ目は、これからの買収である。 今後5年に予定する買収の額と、そこから生じるのれんの見込みを置く。買収が終わった会社では、償却は何もしなくても年ごとに終わりに近づく。これから年に数百億円の買収を続ける会社では、償却は積み上がり、海外の買い手との入札で、買収後の利益の見え方が毎回の不利になる。
三つ目は、株主と資金の出し手である。 海外の投資家の保有比率と、海外での起債や上場の予定を見る。海外の投資家が日本基準の数字を自分で組み替えて読んでいるなら、移行はその手間を会社が引き取ることになる。
三つとも当てはまらないなら、移行する理由は弱い。社長の40億円は、比べる相手のいない物差しを替えるだけになる。
移行しない会社は、のれん償却前の利益を定義して示す
移行しないと決めても、説明は要る。償却が利益を圧迫していること自体は、投資家に見えているからである。
示すのは、のれん償却前の営業利益である。営業利益にのれんの償却費を足し戻した数字を、決算短信の補足資料と説明会の資料に、毎期同じ定義で載せる。足し戻すのはのれんの償却費だけにするか、買収で識別した無形資産の償却費も含めるかを最初に決め、途中で変えない。定義が期ごとに広がる調整後の利益は、かえって信用を落とす(調整後利益の「一過性」は誰が判定すべきか、除外項目を社内規程で定める理由)。
社内の目標も合わせる。全社の目標をEBITDAや償却前の営業利益に置けば、買収のたびに目標の達成が償却で遠のく問題は、基準を替えなくても解ける(全社目標はEBITDAか営業利益か、設備産業と買収型成長での違いと選び方)。
減損の説明も、先にしておく。日本基準の会社でも、のれんの残高、買収した事業の業績と買収時の計画との差を毎期示していれば、減損が出たときの驚きは小さい。IFRSに移行した会社が求められる規律を、開示で先取りする形になる。
産業用ソフトウェアの会社(売上高1,800億円、3月決算、プライム上場)。過去8年で海外の会社を4社買収し、のれんの償却費は年に38億円、営業利益の約15%に当たっていた。 社長は、償却のなくなるIFRSへの移行を検討するようCFOに指示した。CFOは、増える利益の試算より先に、二つを調べた。一つは比べられている相手である。アナリスト6人のレポートで自社と並べられていた会社は延べ11社で、うち8社が海外の会社だった。比較の指標は、営業利益率と一株利益が中心だった。もう一つは買収の予定で、中期経営計画は5年で1,000億円の買収を見込んでいた。CFOは、移行に価値があると判断した。 そのうえで、取締役会には、増える利益と並べて三つの数字を出した。移行日に引き継ぐのれんは過去の償却を引いた後の410億円であること。買収した4社のうち1社は計画を下回っており、回収可能価額が帳簿価額を上回る幅は約30億円しかないこと。単体と国内子会社で日本基準の帳簿を持ち続ける費用と、IFRSの担当を3人置く人件費が毎年かかること。取締役会は移行を決め、同時に、買収した事業の計画との差を四半期ごとに報告させることを決めた。 移行の2年目、計画を下回っていた1社で45億円の減損を計上した。四半期の報告で差が開いていく様子を先に開示していたため、発表の翌日の株価の下落は小さかった。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。
決めるのは三つ
第一に、増える利益を、返す可能性のある額と並べて試算する。 移行日に引き継ぐのれんの額、移行日の減損のテストの結果、5年後に事業の価値が下がった場合の減損の額を出す。のれん以外の差異と、毎年続く費用も入れる。
第二に、比べられている相手と、これからの買収を確かめる。 並べられている会社の過半が海外で、利益の指標で比べられ、買収を続けるなら、移行の費用に見合う。当てはまらないなら、移行しない。
第三に、移行しない場合は、のれん償却前の営業利益を定義を固定して開示する。 移行する場合は、買収した事業の前提を四半期ごとに確かめる仕組みを、移行の前に作る。
IFRSに移行すると、のれんの償却はなくなる。ただし過去の償却は戻らず、移行後に増えた利益は、事業の価値が下がれば減損で一度に返すことになる。帳簿を二つ持つ費用と、基準を読める人を置く費用は、移行の後も毎年続く。
決め手は、海外の同業と同じ物差しで比べられる必要があるかである。比べられている相手、これからの買収、海外の投資家の比率を確かめる。移行しないなら、のれん償却前の利益を固定した定義で示し、買収した事業の状況を毎期開示する。



