6月末に有価証券報告書を提出した翌週、IRの担当者に機関投資家から質問が届く。提出会社の男女の賃金の差異(全労働者)が、前年の64.8パーセントから66.4パーセントに改善している。何が効いたのか。 担当者は人事部に問い合わせる。人事部の回答は、女性の登用が進んだ結果だと思う、というものだった。念のため経理部長が集計表を開くと、今年のシートは賃金から通勤手当を除いていた。前年のシートは含めていた。 集計を担当した社員は春に異動している。なぜ変えたのか、誰が了承したのかは、どこにも書かれていない。 同じ報告書の後半、財務諸表の注記には、会計方針の変更が一行もないことを確かめるための工程が三つもあった。
法令が固定したのは定義の枠で、計算の選択肢は会社に残っている
女性管理職比率も男女の賃金の差異も、法令で定義された指標である。有報で提出会社と連結子会社の数字を一つの表に並べられるのは、計算方法や定義の枠が法令で揃っているからである(グループでKPIの定義がずれる問題、同じ名前の指標をそろえる定義書と改訂手続き)。ただし、揃うのは枠までで、枠の内側の選択までは揃わない。 数字は機械的に一つに決まると思われやすいが、実際には、枠の内側に会社が選ぶ項目がいくつも残っている。
厚生労働省の「女性活躍推進法に基づく男女の賃金の差異の情報公表について」は、賃金を、名称の如何を問わず労働の対償として使用者が労働者に支払う全てのものとしたうえで、退職手当は年度を超える労務の対価という性格から、通勤手当等は経費の実費弁償という性格から、個々の事業主の判断によりそれぞれ賃金から除外する取扱いとして差し支えないとしている。人員数については、男女で異なる数え方をしないこと、初回の公表以降は一貫性ある方法を採用すること、数え方を変更する必要が生じた場合は変更した旨と理由を明記することを基本的な考え方として挙げ、パート労働者を正規雇用労働者の所定労働時間を参考に換算することも差し支えないとする。出向者の扱いは、個々の事業主が実情に応じて適切な方法を採用してよいが、男性・女性、正規・非正規で扱いを統一し、一貫性のある扱いをすることが必要とされる。
管理職の側にも判断が入る。厚生労働省の改正法のリーフレットは、管理職を「課長級」と「課長級より上位の役職(役員を除く)」の合計とし、課長級を、通常「課長」と呼ばれている者であってその組織が二係以上からなり若しくは構成員が10人以上(課長を含む)のものの長、又は同一事業所において呼称や構成員に関係なく職務の内容及び責任の程度が課長級に相当する者(一番下の職階ではないこと) としたうえで、一般的に課長代理や課長補佐は課長級に該当しないとしている。職能資格と役職が分かれている会社では、誰を課長級に数えるかは等級表を見ただけでは決まらない。
| 会社が選ぶ項目 | 数字への効き方 | 定義書に書くこと |
|---|---|---|
| 賃金から通勤手当等を除くか | 通勤手当の男女差が大きい事業所では差異が動く | 除外する手当の一覧と、変更した年 |
| 賃金から退職手当を除くか | 退職者の男女構成で年ごとに振れる | 除外の有無と理由 |
| 人員数の数え方 | 期中の入退社、休業、パートの換算で分母が変わる | 基準日、月数の換算、時間換算の有無 |
| 出向者の扱い | 出向の多い会社で正規雇用の平均が動く | 出向元・出向先のどちらで数えるか |
| 課長級の範囲 | 役職と等級が分かれた会社で分子が動く | 対象となる役職と等級の対応表 |
| 連結子会社の範囲 | 公表義務の有無で行が増減する | 各社の常時雇用労働者数と公表義務の判定 |
この六つは、会計でいえば会計方針に当たる。 選択そのものは許されているが、変えたなら変えた旨と影響を示す、という規律が要る。財務諸表では、この規律が基準と監査で担保されている(会計方針の変更・見積りの変更・誤謬の訂正の違いと、遡及・開示への影響)。人の数字では、規律を置くかどうかが会社に任されている。
同じ報告書の中で、人の数字が二つの給与データから作られている
有報の従業員の状況には、以前から提出会社の平均年間給与が載っている。これを作っているのは、多くの会社で経理か開示の担当である。一方、男女の賃金の差異は、人事が法による公表のために作っている。 二つの数字は、同じ一年分の給与から作られているのに、母集団と給与の範囲が別々に決められていることがある。
厚生労働省の同じ資料は、この重複に解を用意している。有価証券報告書を作成する事業主は、有報で用いる「従業員」の範囲と「平均年間給与」の計算に用いる給与の範囲が、女性活躍推進法の正規雇用労働者と賃金の定義に適合している場合、有報の平均年間給与の算出方法を踏まえて男女別の平均年間賃金を算出して差し支えないとしている。つまり、一つの母集団と一つの給与の範囲から、平均年間給与と男女の賃金の差異を同時に出す設計が認められている。
2026年3月期から、これを分けて作る不利が大きくなった。 平均年間給与の対前事業年度増減率が記載事項になり、(58-2)で給与等の決定方針も書く。賃上げの方針を書いた同じ報告書で、増減率と男女の賃金の差異が別々の母集団から出ていれば、読み手は数字どうしを突き合わせられない。 前年の平均年間給与を今年と同じ範囲で計算し直せない会社は、増減率そのものが作れない。決算開示の数字を資料間で突合する工程を持っている会社でも、人の数字はその外に置かれていることが多い(決算開示の数字が資料間でずれる原因、短信・有報・計算書類の突合を仕組みにする)。
将来情報の扱いは、実績の数字を守らない
人的資本の記載については、金融庁が責任の範囲を示している、と受け止められていることがある。正確には、守られているのは将来の話の側である。
2026年の改正後の企業内容等の開示に関する留意事項について(企業内容等開示ガイドライン)5-16-2は、第2の「経営方針、経営環境及び対処すべき課題等」から「経営者による財政状態、経営成績及びキャッシュ・フローの状況の分析」まで、及び第4の「従業員の状況等」の将来に関する事項と、サステナビリティの記載のスコープ3の定量情報について、一般的に合理的と考えられる範囲で具体的な説明が記載されていれば、実際の結果と異なっても虚偽記載等の責任を負うものではないと考えられるとしている。対象は将来に関する事項であり、前事業年度の実績として記載した女性管理職比率や男女の賃金の差異は将来に関する事項ではない。 5-16-3は、サステナビリティやコーポレート・ガバナンスの記載で他の公表書類を参照した場合の扱いを定めるが、(58-3)の数字は有報の本文に記載する事項である。
実績の数字について、ガイドラインが求めているのは開示の作法である。5-19-3-3は、育児休業取得率について育児・介護休業法施行規則のいずれの方法で算出したかを明示し、労働者の人員数を労働時間を基に換算している場合はその旨を注記するとし、任意の追加的な情報を追記できるとしている。どの方法で数えたかを書けと言っている以上、方法を記録していない会社は、書く内容を持っていない。
CFOが担うのは集計ではなく、定義の決裁とレビューの設計
この仕事を経理に移せ、という主張ではない。賃金制度も等級も育児休業の運用も、分かっているのは人事である。 CFOが担うのは、数字の作り方を統制する三つの接点である。
一つ目は、定義書の決裁である。 六つの選択項目を文書にし、変更をCFOと人事担当役員の決裁事項にする。決裁の記録が残っていれば、冒頭の質問には、通勤手当を除いた影響と実質の変化を分けて答えられる。 グループの指標定義を持つ会社なら、同じ台帳に載せる(グループでKPIの定義がずれる問題、同じ名前の指標をそろえる定義書と改訂手続き)。
二つ目は、突合点の指定である。 男女別の総賃金の合計は、同じ範囲の給与台帳の合計と一致し、給与台帳は総勘定元帳の給料手当と賞与に、除外した手当と役員報酬などの差を挟んで一致するはずである。ここが一致しない数字は、比率を計算する前に止める。 給与システムと会計システムの連携で差が出る箇所を知っているのは、経理の側である(SAPとサブシステムの数字が合わない原因、販売・購買・経費・給与の連携設計)。
三つ目は、連結子会社の対象判定である。 改正女性活躍推進法で、常時雇用する労働者が101人以上の子会社も男女間賃金差異と女性管理職比率の公表義務の対象になり、有報の(58-3)は提出会社と連結子会社それぞれの記載を求める。主要な連結子会社以外は「提出会社の参考情報」に記載できるが、その二つの指標の記載の要否は各社が法による公表を行うかで決まり、公表義務の有無は各社の常時雇用する労働者の数で決まる。 男性の育児休業取得率は、育児・介護休業法による公表の有無も併せて判定する。連結パッケージの項目に、常時雇用労働者数と三つの指標、その定義の確認欄を足すのが、最も漏れにくい(連結パッケージの設計と回収、子会社の提出を遅らせない様式と期日)。
売上高1,600億円の化学メーカー(東証プライム上場、3月決算)。連結子会社は国内9社、海外6社。2026年3月期の有価証券報告書の準備で、開示担当の課長が人事部から受け取った提出会社の男女の賃金の差異(全労働者)は66.4パーセントで、前年の有報の64.8パーセントから1.6ポイント改善していた。 課長が前年比の説明を求めると、人事部は登用の成果と答えた。経理部が人事部の集計表を前年と並べて確認したところ、二つの変更が見つかった。 一つは賃金から通勤手当を除いたこと、もう一つは他社から受け入れている出向者を正規雇用労働者に含めたことである。どちらも担当者の判断で、決裁の記録はなかった。経理部は前年の給与データを今年の定義で集計し直した。 前年の数字は、通勤手当の除外で0.5ポイント、出向者の扱いで0.6ポイント上がり、65.9パーセントになった。同じ定義で比べた改善は0.5ポイントで、見かけの改善1.6ポイントのうち約7割は定義の変更によるものだった。 同じ確認の中で、国内子会社1社が課長代理を課長級に数えていたことも分かった。厚生労働省の資料が一般的に課長級に該当しないとする役職である。CFOは三つを決めた。 通勤手当の除外と出向者の扱いは今年の定義を採用し、有報の数字に計算の前提を付記したうえで、前年を同じ定義で計算し直した数字と実質の変化を任意の追加的な情報として記載する。子会社の課長級の範囲は法令の定義に合わせて数え直す。そして、平均年間給与と男女の賃金の差異を、同じ正規雇用労働者の母集団と同じ給与の範囲から経理部が算出し、人事部が制度面を確認する分担に切り替える。 翌期に向けて、六つの選択項目を書いた定義書をCFOと人事担当役員の決裁で確定し、連結パッケージに国内子会社の常時雇用労働者数と三つの指標の定義確認欄を加えた。改正女性活躍推進法の施行で、男女間賃金差異の公表義務を負う国内子会社は4社から7社に増える。 開示担当の課長の言葉が残っている。財務の数字なら、前年と定義が違うと分かった時点で誰かが止める。人の数字は、止める人がいなかった。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。
決めるのは三つ
第一に、法令の定義の枠の内側に残る選択を、会計方針と同じ扱いで文書にし、変更を決裁事項にする。 厚生労働省の資料は、退職手当と通勤手当等を事業主の判断で賃金から除外してよいとし、人員数は男女で異なる数え方をせず、初回以降は一貫性ある方法を採り、変更したら旨と理由を明記するとし、出向者の扱いは統一と一貫性を条件に実情に応じて選べるとする。課長級は、二係以上又は構成員10人以上の組織の長、又は職務の内容と責任の程度が課長級に相当する者(一番下の職階ではない)で、課長代理や課長補佐は一般に該当しない。 選択は許されているが、変えた記録がなければ前年比は説明できない。
第二に、平均年間給与と男女の賃金の差異を、同じ母集団と同じ給与の範囲から出す。 2026年2月20日公布の改正開示府令は、(58-3)に平均年間給与の対前事業年度増減率を、(58-2)に人材戦略と給与等の決定方針を加え、2026年3月31日以後に終了する事業年度の有報から適用している。厚生労働省の資料は、有報の従業員の範囲と給与の範囲が法の定義に適合していれば、有報の算出方法を踏まえて男女別の平均年間賃金を算出して差し支えないとしている。 総賃金を給与台帳と総勘定元帳に突合し、合わない数字は比率にする前に止める。
第三に、実績の数字は将来情報の扱いに守られないことを前提に、人事以外のレビューと連結子会社の判定を組み込む。 開示ガイドライン5-16-2が対象とするのは将来に関する事項とスコープ3の定量情報であり、5-19-3-3は算出方法の明示と労働時間換算の注記を求めている。2026年4月1日施行の改正女性活躍推進法で、男女間賃金差異と女性管理職比率の公表義務は101人以上の企業に広がり、有報に並ぶ連結子会社の行も増える。 連結パッケージに常時雇用労働者数と指標の定義確認欄を入れる。



