決算短信のドラフトを書いていた課長が、経営成績の概況の文章を生成AIに整えさせている。入力したのは、確定前の売上高と営業利益、そして前年同期比の増減率である。本人に隠している意識は無い。 会社として禁止はされていないし、社内報には業務効率化の事例として似た話が載っている。二週間後、別の担当が同じ手順で、まだ取締役会に上げていない業績予想の修正案を入力した。ここまでの間に、誰かが判断を求められる場面は一度も無かった。
禁止は、利用を統制の外へ押し出す
生成AIの利用を全面的に禁じた会社で何が起きるかは、もう十分に観測されている。利用は止まらず、会社が契約していないサービスへ、個人のアカウントで移る。
この移動が何を意味するかを、統制の観点で分解すると三つになる。
第一に、契約上の保護が無くなる。 法人向けの契約では、入力データを学習に使用しないこと、保存期間を限定することを条件として定められる場合がある。個人の無償アカウントには、そうした条件は付いていない。
第二に、記録が残らない。 誰が、いつ、何を入力したかが会社側に一切残らない。事故が起きたときに範囲を特定できず、起きていないことを証明することもできない。
第三に、指導ができない。 使っていないことになっている以上、使い方を教える機会が発生しない。結果として、最も危険な使い方が、最も指導を受けないまま定着する。
だから、統制の第一手は禁止ではなく、使ってよい環境をひとつ指定することである。順序が逆になっている会社が多い。ルールを先に作ろうとして、入れてよい情報の線引きの議論が延々と続き、その間ずっと個人アカウントでの利用が続いている。環境を一つ用意して利用をそこへ集めるほうが、線引きの議論より先に効く。
入れてよいかは、情報の種類でなく二軸で決まる
「決算数値は禁止、契約書は禁止、個人情報は禁止」という列挙型のルールは、必ず破綻する。列挙から漏れたものが出てくるからであり、そして現場は漏れたものを「禁止されていない」と読むからである。
判断の軸を二つに絞ると、列挙が要らなくなる。
一つ目が、外部へ出た場合の回復不能性である。出てしまったら取り返しがつくかどうか。公表前の決算数値は、公表してしまえば非公知性を失うが、公表前に外へ出れば取り返しがつかない。取引先との単価は、流出すれば以後の交渉が成立しなくなる。一方、すでに有価証券報告書に載っている数字は、外へ出ても何も起きない。
二つ目が、AIを使って得られる効果の大きさである。Excelの関数を組ませる、SQLを書かせる、議事録を整形させる、英文メールを推敲させる。ここは効果が大きく、しかも入力する情報の機微度が低い。
この二軸で置き直すと、現場が自分で判断できるようになる。列挙型のルールは、判断を管理部門に集める。判断を集めれば、申請の待ち時間を嫌って申請しない利用が増える。
未公表の財務情報は、区分を一つ別に立てる
上場企業、あるいは上場準備中の会社では、公表前の財務情報に固有の扱いが要る。個人情報でも営業秘密でもなく、インサイダー情報の管理という別の系統に属するからである。
金融商品取引法第166条は、会社関係者であって上場会社等に係る業務等に関する重要事実を職務に関し知ったものは、当該重要事実の公表がされた後でなければ当該上場会社等の特定有価証券等に係る売買等をしてはならないと定め、第167条の2は、他人に利益を得させ又は損失の発生を回避させる目的をもって重要事実を伝達し、または売買等を勧める行為を禁じる。
生成AIへの入力それ自体が直ちにこれらの条文に触れる、という話をしているのではない。 そこは慎重に扱うべき論点である。実務として言えるのは別のことで、インサイダー取引管理規程が想定してきた「重要事実に触れる経路」の一覧に、生成AIという経路が入っていないという一点である。規程は通常、社内での情報共有、取引先との協議、専門家への相談といった経路を想定して、必要最小限の者に限定するという原則を置いている。生成AIは、その一覧のどこにも書かれていないまま、日常業務のなかに入り込んでいる。
だから、扱いは単純でよい。公表前の財務情報については、区分を一つ別に立てて、環境を問わず入力を禁じる。 効率の議論をここに持ち込まない。決算短信の文章を整えることで得られる時間は、失うものに全く釣り合わない(適時開示の判断|「決まった」といつ言うかを事前ルールにする)。
そして守秘義務契約の存在も同じ系統で扱う。多くのNDAは第三者への開示と目的外使用を禁じている。 外部のAIサービスへの入力がこれに触れるかどうかは、そのサービスの契約形態、とりわけ入力データが保存されるか、学習に使用されるかで変わる。ここは法務が一度整理すれば済む話で、整理した結果を「使ってよい環境」の指定という形に落とせば、現場は契約書を読まなくてよくなる。
出力を、そのまま根拠資料として残さない
利用ルールの二本目の柱がこれで、しかも一本目より軽視されている。
AIの出力は、情報源が特定できず、同じ入力で同じ出力が返る保証もない。 この二つの性質は、監査証拠として要求される性質と正面から衝突する。監査基準委員会報告書500「監査証拠」が扱う監査証拠の適合性と証明力という枠組みで見れば、出所を示せない文章は、それ自体では証拠にならない。会計基準の条文番号や通達の番号を尋ねて返ってきた回答が、存在しない条項を指していることは、実際に起きる。
したがって、実務ルールは次の形になる。
AIの出力は、下書きまでである。 承認の対象になる版、証跡として保存される版は、人が一次資料に当たって検証した後のものだけとする。会計処理の判断根拠として基準や通達を引くときは、必ず一次資料(企業会計基準委員会、日本公認会計士協会、国税庁、金融庁)で条項番号を確認したうえで引用する。AIが引用した条項番号を、そのまま文書に載せない。
もう一つ、実装上の工夫として効くのが、作業ファイルの命名か格納場所でAI出力を可視化することである。下書きの段階では「_draft」を付ける、あるいは共有フォルダの決められた場所に置く。検証を経て正式版になった時点で移す。この一手間があるだけで、「検証したかどうか」がレビュー時に見える。見えないものは、レビューされない(J-SOX財務報告内部統制:3点セットを形骸化させない更新運用の実務)。
なお、政府の側の考え方の整理も進んでいる。総務省・経済産業省の「AI事業者ガイドライン」は、令和6年4月19日の第1.0版、令和7年3月28日の第1.1版を経て、令和8年3月31日に第1.2版が公表されている。本編で基本理念と指針を、別添で具体的な実践の方法を示す構成で、AIを利用する事業者としての取組も対象に含んでいる。社内規程を新たに書き起こす前に、この構成に自社の記述を対応させておくと、後の見直しが楽になる。
自社のルールだけでは、経路が閉じない
社内の運用を整えても、経理財務の情報は社外へ出ていく。顧問税理士、記帳代行、給与計算の委託先、監査法人、システムの保守ベンダー。渡した先が生成AIをどう使っているかは、自社のルールの外にある。
個人データを含む部分については、法的な手当てがある。個人情報保護法第25条は、個人データの取扱いを委託する場合に、委託を受けた者に対する必要かつ適切な監督を義務づける。委託先が個人データを含むプロンプトを外部のサービスへ入力しているなら、それは監督の対象である。 具体的には、委託契約の中で再委託の制限と並べて、外部のAIサービスへの入力についての取り決めを置くことになる。
一方で、個人データを含まない情報についてはこの経路が使えない。決算数値、取引条件、原価情報。ここは契約の守秘条項でしか押さえられない。 既存の契約書の守秘条項は、多くが「第三者への開示の禁止」という書き方をしており、AIサービスへの入力がこれに含まれるかは解釈の問題として残る。次回の更新時に一文を足すか、覚書で補うか、いずれにしても法務の作業として明示的に立てておく必要がある。
そして実務上、最も効くのは契約の文言ではなく質問である。委託先との定例で「御社では生成AIをどう使っていますか」と一度聞く。 聞かれた側は方針を用意するようになり、聞いていない側は、事故が起きるまで何も知らないままでいる。
ルールはA4一枚に、四つだけ書く
分厚い規程を作ると、読まれない。読まれない規程は存在しないのと同じである。書くのは四つでよい。
一つ目が、使ってよい環境の指定。 会社が契約したサービスと、その利用方法。ここに書かれていない環境での業務利用は認めない、という一文を添える。
二つ目が、入れてよい情報の区分。 二軸のマトリクスをそのまま一枚に載せる。例示は各象限に三つあれば足りる。公表前の財務情報については、区分を別に立てて明示的に禁じる。
三つ目が、出力の扱い。 下書きまでとすること、承認・証跡に残るのは人が検証した版であること、条項番号は一次資料で確認すること。
四つ目が、例外の窓口。 判断に迷ったときに誰に聞くか、氏名か役職で書く。窓口が書かれていないルールは、迷ったときに「たぶん大丈夫」に倒れる。
四つとも、ツールの選定とは独立に決まる。ツールが変わっても書き直す必要がないことが、この四点構成の利点である(生成AI時代の経理の仕事|消える作業と、代わりに増える仕事を職務単位で書き直す)。
決めるのは三つ
第一に、使ってよい環境を先に一つ指定する。 禁止は利用を止めず、会社が契約していないサービスと個人アカウントへ押し出す。押し出された先には、入力データの非学習や保存期間の条件も、利用の記録も、指導の機会も無い。線引きの議論を終える前に、環境を用意して利用をそこへ集めるほうが早く効く。
第二に、入れてよい情報を、種類の列挙でなく二軸で書く。 外部へ出た場合の回復不能性と、AIを使って得られる効果の大きさ。列挙型のルールは漏れたものが「禁止されていない」と読まれて破綻し、判断を管理部門に集めると申請しない利用が増える。ただし、公表前の財務情報だけは区分を別に立て、環境を問わず入力を禁じる。 インサイダー取引管理規程が想定してきた「重要事実に触れる経路」の一覧に、生成AIという経路が入っていない。
第三に、出力を根拠資料として残さない原則を立てる。 AIの出力は情報源が特定できず再現性も保証されないため、承認や証跡に残す版は人が一次資料に当たって検証したものに限る。会計基準や通達の条項番号は、企業会計基準委員会・日本公認会計士協会・国税庁・金融庁の一次資料で確認してから引用する。検討メモの様式に参照資料の記入欄を置き、埋まらないものはレビューへ回さない。
そのうえで押さえておくべきなのが、営業秘密の側の理屈である。不正競争防止法第2条第6項の営業秘密は秘密管理性・有用性・非公知性を要件とし、秘密管理性はその情報が秘密として扱われていることが従業員にとって認識可能な状態にあるかで判断される。社外のサービスへ自由に入力できる状態は、流出したときに法的保護を主張する側の足場を弱くする。 守るのは情報そのものだけでなく、守っていたという事実である。



