S/4HANAへの刷新の提案が、導入ベンダーの候補2社から揃った。どちらも段階導入を勧めている。 1社目の案は、4月に親会社の会計と管理会計を新しいERPに切り替え、10月に販売と購買、翌年の4月に生産を移し、その後に国内の子会社5社を順に入れる。一度に全部を切り替えれば、失敗したときに会社の業務が止まる。機能ごとに分ければ、切替えの日の影響を小さくでき、利用者の教育も分散できるという。情報システム部長はこの案に傾いている。 役員会の前の打合せで、CFOが一つだけ質問する。会計を4月に移して、販売と生産が翌年の4月まで旧システムに残るなら、その1年間、親会社の月次決算は何本の帳簿で締まるのか。 ベンダーの担当者は、仮のインターフェースで旧システムの仕訳を新しいERPに送るので、帳簿は一本になりますと答える。CFOが聞いたのは、仕訳の送り先ではなかった。段階導入は何のリスクを下げ、代わりに何の費用を生むのか。
段階導入が下げるリスクと、代わりに生むもの
一斉の切替えが怖いのは、失敗の大きさが全社に及ぶからである。すべての会社のすべての業務が、同じ週末に新しいシステムへ移る。 移行のデータに誤りがあれば、翌営業日の出荷も請求も支払も止まりうる。基幹システムが止まった月の決算を、会社の全体で経験することになる(基幹システムが止まった月の決算で、復旧を待たずに代替の締めを進める手順)。
段階導入は、この失敗の大きさを小さく刻む。 一度に切り替える範囲が小さければ、障害が起きても影響は限られ、最初の波で得た教訓を次の波に活かせる。教育の負荷も、移行のリハーサルの負荷も分散できる。ここまでは、どの導入ベンダーも提案書に書いてくる。
書かれないのは、刻んだ分だけ生まれるものである。 新旧のシステムが同時に動く期間には、三つのものが必要になる。一つ目は、新旧のあいだでデータを送る仮のインターフェースで、最後の波が終われば捨てる。二つ目は、新旧のコードの対応表で、勘定科目、得意先、仕入先、品目のそれぞれについて、二つの体系を毎月保守する。三つ目は、新旧の残高の照合で、月次決算のたびに発生する。 どれも、またぐ期間が1か月延びるたびに1か月分の費用がかかる。段階導入のリスクの低さは、この費用と引き換えである。
機能で切ると、一つの会社の決算が二つの帳簿にまたがる
冒頭の1社目の案のように、会計を先に移し、販売と購買と生産を後に回すと何が起きるか。
親会社の総勘定元帳は、4月から新しいERPにある。 だが、得意先ごとの売掛金の明細、仕入先ごとの買掛金の明細、品目ごとの在庫の数量と金額は、旧システムに残る。旧システムから新しいERPへは、日次か月次で集計した仕訳が送られる。月次決算で経理がやることは、旧システムの補助元帳の残高と、新しいERPの総勘定元帳の残高が一致しているかを、勘定ごとに突き合わせることである。 仮のインターフェースが一日分の送信に失敗すれば、差が出る。差の原因を追うには、二つのシステムの両方の画面を開くことになる。
入金の消込も、どちらで行うかを決めなければならない。 売掛金の明細が旧システムにあるなら、消込も旧システムで行い、その結果を仕訳として送る。銀行の明細は新しいERPに取り込むのか、旧システムに取り込むのか。新しいERPに入れた機能を、会計の担当者は最初の1年、半分しか使えない。
原価の計算はさらに重い。生産が旧システムに残る期間、製品の原価は旧システムで計算され、新しいERPの管理会計には結果の金額だけが届く。原価差異の分析や、製品別の採算を新しいERPで見るという導入の目的は、最後の波が終わるまで先送りになる。
会計だけを先に寄せる構成には、Central Financeという選択肢もある。ただし、それは旧システムを当面残すことを前提に、仕訳の複製と照合の仕組みを最初から設計する構成であり、刷新の途中に仮のインターフェースでつなぐ状態とは別物である(Central Financeで会計だけを先に寄せる選択肢と、全面移行との違い)。
拠点で切る案は、影響がさらに大きい。同じ会社の中で、第1工場を先に新しいERPへ、第2工場を後に移せば、一つの会社コードの帳簿が二つのシステムに分かれる。 工場間の製品の振替、共通の在庫、本社の費用の配賦のすべてが、新旧をまたぐ。
会社で切っても、決算が1本で締まらない会社群がある
では、会社ごとに切ればよいか。会社で切れば、それぞれの会社の単体の決算は一つの帳簿で締まる。 連結は、もともと複数のシステムから子会社の数字を集めている。親会社が新しいERP、子会社が旧システムという状態は、連結の側から見れば、集める先の形式が一つ増えるだけで済むことが多い。
だが、会社の境界と、決算が締まる範囲は、いつも一致するわけではない。 製造を子会社に、販売を別の子会社に分けている会社群では、製造子会社から販売会社への製品の売上と仕入が、毎月、大きな金額で発生する。この会社群の月次決算は、互いの会社間の取引と残高を突き合わせ、在庫に含まれる未実現利益を計算しないと締まらない。 一方が新しいERP、もう一方が旧システムにあれば、会社間の照合は二つのシステムのデータの突合せになり、未実現利益の計算に使う在庫の明細も、二つのシステムから集めることになる(連結消去仕訳が止まる原因は照合の段取り、内部取引と未実現利益の実務)。
分ける線は、機能でも会社でもなく、毎月互いの数字を突き合わせないと締まらない範囲で引く。 一つの会社の中の機能は、割らない。会社間の取引が毎月大きく、照合と未実現利益の計算で結ばれている会社群は、同じ波に入れる。会社間の取引がほとんどなく、単体で締まって連結の数字を送るだけの会社は、別の波に回してよい。 海外の子会社のように、もともと別のシステムで締め、連結パッケージで数字を送っている会社も、後の波に回して失うものは少ない(グループ会社にも同じERPを入れるべきか、テンプレート展開の範囲の考え方)。
新旧をまたぐ期間を、何か月まで許すかを先に決める
決算が締まる範囲で波を切っても、連結の段階では新旧をまたぐ期間が残る。段階導入の稟議で書くべきなのは、波の順番よりも、このまたぐ期間を何か月まで許すかである。
理由は、段階導入の計画が遅れるときの遅れ方にある。最初の波の稼働の後、2つ目の波は、最初の波の障害の対応と改善の要望に人を取られて、後ろにずれやすい。 導入ベンダーの見積りに書かれた6か月のまたぐ期間が、実際には18か月になる。その間、仮のインターフェースは保守され続け、新旧のコードの対応表は更新され続け、経理は毎月の照合を続ける。またぐ期間の上限を決めていなければ、この延長は誰の判断も経ずに起きる。
稟議には、二つの数字を並べる。一つは、またぐ期間の1か月あたりの費用である。 仮のインターフェースの保守と運用、対応表の保守、照合と調整の経理の工数。もう一つは、またぐ期間の上限の月数で、これを超えそうになった時点で、次の波の範囲を削るのか、期間の延長を認めるのかを、改めて経営会議で決める。上限を超えることを、計画の遅れではなく、投資の条件の変更として扱う。 プロジェクトの判断の場を先に決めておくのと同じ考え方である(SAP移行プロジェクトに経理財務はどう関わるべきか、工程ごとに判断すること)。
切替えの月の選び方も、決算の側から決める。 会計の切替えは期首に置けば、期中の取引の累計を移す必要がなく、固定資産の償却の累計も期首の残高で移せる(SAPのカットオーバー計画の立て方、期首残高の確定と業務凍結期間の決め方)。期末の直前の切替えは避ける。新しい仕組みの統制が十分な期間運用されたことを期末の評価で示しにくく、監査人の移行データの検証も期末の監査と重なる。四半期の締めの月も、決算短信の日程と重ねない。 どうしても期中に切り替えるなら、新旧の二重の締めを何か月やるかも、またぐ期間の一部として上限に数える(システム移行期の並行決算、旧システムと新システムで二重に締める期間の進め方)。
産業機械のメーカー(売上高1,500億円、3月決算、国内の連結子会社5社、海外の連結子会社7社)。導入ベンダーが勧めた当初の案は、親会社の会計を4月に先行させ、販売と購買を10月、生産を翌年4月、その後に国内子会社を順に入れる4つの波だった。 経理部が波ごとに必要な仮のインターフェースを数えると38本になり、親会社の単体の決算が新旧の二つのシステムにまたがる月は12か月あった。さらに、国内の製造子会社2社から親会社への製品の売上は親会社の売上原価の約6割を占め、毎月の会社間の照合と未実現利益の計算で結ばれていた。 会社は波の切り方を変えた。最初の波は4月の期首に、親会社と製造子会社2社と国内の販売子会社の4社を、会計、販売、購買、生産のすべての機能で一度に切り替える。 会社間の取引の少ない国内のサービス子会社と不動産子会社の2社は10月の2つ目の波に、12月決算の海外子会社は翌年1月以降の3つ目の波に回した。仮のインターフェースは6本に減り、単体の決算が二つのシステムにまたがる月はゼロになった。 連結が新旧のシステムから数字を集める期間の上限は12か月と決め、1か月あたりの費用を約900万円と見積もって稟議に書いた。最初の波は大きくなったので、移行のリハーサルを当初の2回から3回に増やした。稼働の最初の月の単体決算は、いつもの6営業日から9営業日かかったが、3か月目には6営業日に戻った。 2つ目の波は予定より2か月遅れたが、上限の範囲内だったので、経営会議に報告したうえで計画どおり進めた。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。
段階導入の稟議の前に決める三つのこと
第一に、段階導入が下げるのは切替えの日の失敗の大きさであり、その代わりに、新旧をまたぐ期間の費用を毎月払うと理解する。 仮のインターフェース、新旧のコードの対応表、残高の照合は、最後の波が終わるまで続く。S/4HANAでは出荷や請求の記帳が会計の仕訳明細に同時に書かれるので、機能で割るとこの一体性を自分で切ることになる。
第二に、波の線は、機能でも会社でもなく、月次決算が一つの帳簿で締まる範囲で引く。 一つの会社の中の機能は割らない。毎月の会社間の照合と未実現利益の計算で結ばれた会社群は、同じ波に入れる。 単体で締まって連結の数字を送るだけの会社は、後の波に回してよい。
第三に、新旧をまたぐ期間の上限の月数と、1か月あたりの費用を、稟議の前に決める。 上限を超えそうになったら、計画の遅れではなく投資の条件の変更として、経営会議で次の波の範囲か期間の延長かを決め直す。会計の切替えは期首に置き、期末の直前と四半期の締めの月を避ける。
段階導入は切替えの日の失敗を小さく刻む代わりに、新旧をまたぐ期間の費用を毎月生む。S/4HANAでは販売や購買の記帳が会計の仕訳明細に同時に書かれるため、機能や拠点で割ると一つの会社の決算が二つの帳簿にまたがる。波の線は、月次決算が一つの帳簿で締まる範囲で引く。
導入ベンダーの提案を受け取ったら、まず波ごとに必要な仮のインターフェースの本数と、単体の決算が新旧にまたがる月数を数えてみてほしい。そのうえで、またぐ期間の上限の月数と1か月あたりの費用を稟議に書き、会計の切替えを期首に置く計画になっているかを確かめる。



