売り手の創業社長は30億円を譲らない。買い手の社内で決めた上限は24億円である。 三回目の交渉が物別れに終わった夜、アドバイザーから案が届く。固定の対価22億円に、3年後の営業利益の水準に応じて最大8億円を追加で払う条項を付ける。 満額なら30億円で売り手の希望に届き、未達なら22億円で上限の内側に収まる。社長は電話口で、これなら両方の顔が立つと言う。CFOが引っかかったのは、金額ではなかった。 その3年間、売り手の社長は子会社の社長として残る。そして来年、グループの基幹システムへの移行と、部品の共同購買を始める計画になっている。アーンアウトの条項は、価格の差を埋める代わりに、この3年間の経営に何を持ち込むのか。
アーンアウトが埋めているのは価格の差ではなく、見通しの差
冒頭の交渉で、売り手と買い手は価格そのものについて争っているように見える。実際に違っているのは、対象会社の3年後の姿についての見通しである。 売り手は計画が達成されると信じ、買い手はそれを疑っている。アーンアウトは、どちらが正しかったかを、3年後の実績に決めさせる。
この仕組みが合意を早めるのは確かである。ただし、決めさせる実績は、買った後の会社の数字である。 3年間、その会社は買い手のグループの一員として動く。共通費を負担し、購買やシステムを統合され、場合によっては人が移る。統合の一つひとつが、売り手に約束した指標を動かす。 見通しの差は消えたのではなく、取得後の運営をめぐる争いとして持ち越されている。
対象期間中、売り手経営陣は指標に向かって動く
対象期間中も売り手の経営者が社長として残る条項は多い。冒頭の条項なら、アーンアウトの満額8億円は、売り手が受け取る対価の上限30億円の三割近くに当たる。 合理的に動けば、経営は指標の達成に向かう。
営業利益が指標なら、期間中に費用を先送りする動機が生まれる。修繕、研究開発、採用、広告は、削れば当期の利益が上がり、効果が落ちるのは期間の後である。 買い手が統合で持ち込む費用、たとえば本社の共通費の配賦、グループの基幹システムの利用料、内部統制の整備の費用は、売り手の経営者から見れば約束の外から来た費用になる。統合を進めるほど指標が下がる構造では、売り手の経営者が統合に協力する理由がない。
逆の指標にも別の問題がある。売上高を指標にすれば、費用の配賦をめぐる争いは減るが、採算の悪い受注を積み増す動機が生まれる。 どの指標を選んでも、指標にしなかったものが犠牲になりやすい。
だから論点は、アーンアウトを使うかどうかより先に、期間中にどの統合を進め、どの統合を待つかである。統合計画と指標が矛盾したまま契約すると、統合後の最初の数か月が、指標の定義の交渉に費やされる(PMIの統合後100日でCFOが押さえる財務の論点、会計方針・資金繰り・KPI・経理体制)。シナジーを価格に乗せないという規律も、アーンアウトの指標が統合を止めれば実現しない(M&Aの投資判断で買収シナジーを原則として価格に乗せない理由、実現確度と時期で割り引くPMIの実務)。
同じ達成が、日本基準とIFRSで別の損益になる
冒頭の条項で、取得後の損益への出方を並べる。固定の対価22億円、識別可能な純資産12億円、日本基準でののれんの償却期間を10年とする。 3年目の期末に達成が確定し、満額の8億円を払う。
日本基準では、取得日にアーンアウトは取得原価に入らず、のれんは10億円である。 3年目の期末に交付が確実となり時価が合理的に決まった時点で、取得原価とのれんに8億円を追加する。注4により、追加したのれんは企業結合日に認識していたと仮定して計算するので、3年分の償却額2億4,000万円が、その期の損益に一度に入る。 以後は、追加分だけで毎期8,000万円の償却が増える。確定が期の途中なら、その期に計上するのは、企業結合日からその期の期末までに対応する償却額である。
IFRSでは、取得日にアーンアウトの公正価値を対価に含める。 達成の確率と割引を織り込んだ公正価値が3億円なら、のれんは22億円+3億円−12億円で13億円になり、償却はしない。業績が伸びて支払見込みが8億円に上がれば、負債は3億円から8億円に増え、差の5億円は、時の経過による割引の巻き戻しを含めて、各期の純損益に費用として入る。 ただし、取得日から最長1年の測定期間(第45項から第49項)の中で、取得日時点に存在した事実についての情報を得て公正価値を見直した分は、損益ではなくのれんの修正になる。損益に入るのは、目標の達成のような取得日後の事象による変動である。 業績が振るわず支払見込みがゼロになれば、3億円は利益として戻る。そのとき、のれんには減損の兆候が出ていることがあり、利益の戻りと減損の損失が近い時期に並びうる(のれんの減損は兆候で管理する、M&A後にCFOが四半期ごとに見る指標)。
日本基準の会社にとっての注意点は、達成が確定した期に償却の前倒しが一度に来ることである。 対象会社の利益が伸びた期に、償却費の塊が重なる。IFRSの会社にとっては、買った事業がうまくいくほど、損益が悪く見える期間が続くことである。 どちらの場合も、業績予想と、支払の期の資金繰りと、財務制限条項の余裕度に、先に載せておく(コベナンツ(財務制限条項)の管理、抵触の前に余裕度を四半期で見る)。
雇用の継続を支払の条件に入れるかどうかは、交渉の終盤の小さな修正に見えて、損益の区分を変える修正である。 残ってほしい経営者への動機付けは、アーンアウトに混ぜず、役員報酬の契約で別に設計するほうが、会計も交渉も分けて考えられる(株式報酬・業績連動報酬の指標選び、損金算入と経営行動への影響)。
指標と期間は、統合計画の側から決める
指標は、交渉の場で売り手と買い手の間の数字として選ばれやすい。選ぶ順序を逆にして、期間中の統合計画から、衝突の小さい指標を選ぶ。
| 指標 | 統合と衝突する点 | 定義で押さえること |
|---|---|---|
| 営業利益・EBITDA | 共通費の配賦、グループの費用の付け替え、修繕や研究開発の先送り | 算定に含める費用と除く費用の一覧、取得日時点の会計方針で計算すること、先送りを防ぐ費用の下限 |
| 売上高 | 採算の悪い受注の積み増し、グループ会社への取引の移管 | 対象とする顧客と製品の範囲、グループ内に移した取引の扱い、値引きと返品の条件 |
| 粗利 | 共同購買による原価の変化、在庫評価の方針 | 購買統合の効果を含めるか除くか、原価計算の方法の固定 |
| 事業上の到達点(許認可、主要顧客の契約更新など) | 統合との衝突は小さいが、判定が二値になる | 判定する者と判定の資料、期限の延長の条件 |
表の右の列を、契約書の算定の条項に落とす。そのうえで、三つの手続を書いておく。 算定に争いが生じたときに、独立した会計の専門家に判断を委ねる手続。買い手が統合を前倒ししたくなったときに、アーンアウトを固定額で買い取る条件。 そして、グループの会計方針に揃えた連結の数字と、アーンアウトの算定に使う数字を分けて計算するという確認である。
期間は、統合を待てる長さの内側に置く。 基幹システムの統合を2年目に予定しているなら、3年の期間は、統合を1年止めるか、統合の効果を算定から除く手間を3年目まで続けるかの選択になる。どちらを選ぶかを、条項に署名する前に決める(買収した子会社の経理統合は、人の入れ替えより締めの型を先に移す)。
固定の対価だけで、未達のシナリオに耐えるかを見る
アーンアウトは、買い手の価格の規律を緩める方向にも働く。上限24億円に対して「最大30億円だが、未達なら22億円」と言われると、22億円は上限の内側にあるように見える。
見るべき比較は二つある。一つ目は、未達のシナリオでの対象会社の価値と、固定の対価22億円の比較である。 未達のシナリオでの価値が20億円なら、アーンアウトを一円も払わなくても、2億円高く買っている。二つ目は、達成のシナリオでの価値と、固定の対価に満額を足した30億円の比較である。 達成しても価値が28億円にしかならないなら、達成したときにも高く買っている。
両方の比較で、交渉前に文書にした上限の規律の内側にあることを確かめる(M&Aの上限価格を交渉前に文書化する、降りる判断の規律と手続き)。アーンアウトは溝を埋める条項であって、上限を引き上げる条項ではない。そして満額の8億円は、3年後に現金で出ていく。その時点の手元資金と借入の余力に、支払を載せておく(買収資金の組み方、手元資金・借入・株式対価の配分を意向表明の前に詰める手順)。
売上高1,100億円の産業機器メーカー(日本基準)。保守サービスの会社を、創業者の社長から全株式を買い取った。 固定の対価は18億円で、2年間の累計の営業利益に応じて最大6億円を追加で払う条項を付け、社長が期間中に退任した場合は追加の対価を払わないと定めた。のれんは10年で償却している。1年目に問題が出たのは、統合の側だった。 買い手はグループの基幹システムへの移行と部品の共同購買を初年度に予定していたが、社長は移行の費用とシステム利用料が営業利益を下げるとして、移行の延期を求めた。本社の共通費の配賦も、算定に含めるかどうかが契約に書かれておらず、四半期ごとに協議が必要になった。 会計では、社長の退任で支払が消える条件が付いていた部分をどう扱うかが監査法人との論点になり、決着まで二か月かかった。CFOは、統合の遅れを数字で示した。 共同購買で見込んでいた原価の低減は年間1億6,000万円で、移行を1年延ばせば、その分が失われる。取締役会の承認を経て、取得から12か月の時点で、アーンアウトを固定額3億5,000万円で買い取る合意を社長と結んだ。 社長は引き続き社長として残り、報酬は役員報酬の契約に切り分けた。会計処理は、雇用の継続を条件とした条項の性格と、取得後に結んだ合意による買い取りであることを踏まえて監査法人と協議し、取得の対価に当たる部分と社長への報酬に当たる部分を分けて処理した。 基幹システムへの移行と共同購買は、買い取りの翌四半期に始まっている。この案件の後、同社はアーンアウトの社内基準を作った。 指標は統合と衝突しにくい保守契約の更新率と売上高を優先し、期間は18か月以内、統合で持ち込む費用の一覧とその算定からの除外を契約に書き、固定額での買い取りの条件を最初から入れる。雇用の継続は追加の対価の条件にせず、残ってもらう経営者の報酬は別の契約で決める。そしてタームシートの段階で損益への出方を試算し、監査法人に扱いを確認することを、M&Aの手順書に入れた。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。
アーンアウトの条項を固める前に決める三つのこと
第一に、指標と期間を、交渉の場ではなく統合計画の側から決める。 アーンアウトが埋めているのは対象会社の将来についての見通しの差で、その答えは買収後の会社の数字が出す。残った売り手経営陣は指標に向かって動き、営業利益なら費用の先送りと統合費用への抵抗、売上高なら採算の悪い受注が起きやすい。期間中にどの統合を進めるかを先に決め、衝突の小さい指標を選び、算定に含める費用と除く費用、算定の争いの解決手続、固定額での買い取りの条件を契約に書く。 期間は統合を待てる長さの内側に置く。
第二に、損益への出方を、適用する基準ごとに条項を固める前に試算する。 日本基準では企業結合に関する会計基準第27項(1)により、交付が確実となり時価が合理的に決定可能となった時点で取得原価とのれんを追加し、注4により企業結合日から償却していたと仮定した分をその期の損益に一度に入れ、第49項(3)②で条項の内容と今後の処理方針を注記する。IFRS第3号では取得日の公正価値を対価に含め、第58項により資本に分類されるものを除き、測定期間(第45項から第49項)の修正に当たらない公正価値の変動を純損益に計上するため、事業がうまくいくほど損失が続く。 B55項(a)は雇用の終了で支払が消える条件付の支払を報酬とし、日本基準の条件付取得対価の定めにはこの区分の条文がない。雇用の継続を支払の条件に入れず、報酬は別の契約で設計し、扱いは監査法人と早く確認する。
第三に、固定の対価だけで未達のシナリオに耐えるかを確かめる。 未達のシナリオの価値と固定の対価、達成のシナリオの価値と固定の対価に満額を足した額を比べ、両方で交渉前に文書にした上限の内側にあることを見る。アーンアウトは上限を引き上げる条項ではない。 満額の支払は、支払の期の手元資金、借入の余力、財務制限条項の余裕度、業績予想に先に載せておく。
アーンアウトは価格の溝を埋める条項である前に、取得後の損益と経営に数年間残る条項である。埋めているのは対象会社の将来についての見通しの差で、その答えは買収後の会社の数字が出す。だから条項は、交渉の場の数字より先に、統合計画と会計の出方と価格の規律から組み立てる。
タームシートに署名する前に、次の三点を確認したい。期間中にどの統合を進めるかと、それと衝突しにくい指標・期間を決めたか。適用する基準で損益への出方を試算したか。雇用の継続を追加の対価の条件に入れず、報酬は別の契約に切り分けたうえで、扱いを監査法人に確認したか。未達と達成の両方のシナリオで、交渉前に文書にした上限の内側に収まり、満額の支払を資金繰りと財務制限条項に載せたか。



