監査法人から翌期の報酬見積りが届く。前期比で二桁の増額。理由の欄には「監査工数の増加」とだけ書かれている。ここでCFOが取れる手は、感覚的には二つしかないように見える。飲むか、値切るか。だがこの二択に入った時点で、すでに一手損している。監査報酬は、CFOが単独で決められる数字ではない。 会社法は、この金額の決定に監査役等の同意を挟む構造を置いている。だからCFOの仕事は、金額を押し戻すことではなく、監査役等が同意できる材料を作ることになる。
POINT
監査報酬の交渉に入る前に、決定権の所在を確認しておく。会社法第399条第1項は「取締役は、会計監査人又は一時会計監査人の職務を行うべき者の報酬等を定める場合には、監査役(監査役が二人以上ある場合にあっては、その過半数)の同意を得なければならない」と定める。監査役会設置会社では監査役会(同条第2項)、監査等委員会設置会社では監査等委員会(第3項)、指名委員会等設置会社では監査委員会(第4項)に読み替わる。しかも同意の理由は外に出る。会社法施行規則第126条第2号は、会計監査人設置会社の事業報告に「当該事業年度に係る各会計監査人の報酬等の額及び当該報酬等について監査役(監査役会設置会社にあっては監査役会、監査等委員会設置会社にあっては監査等委員会、指名委員会等設置会社にあっては監査委員会)が法第三百九十九条第一項の同意をした理由」を記載することを求めている。「前年並みに抑えた」は同意理由として書けない。書けるのは、監査計画の内容と工数の妥当性の説明だけである。したがって交渉の言語は金額ではなく単価と工数になる。増額分を、職階別単価や人員構成の変化による単価要因と、工数要因に割る。工数要因はさらに制度起因と自社起因に分ける。監査上の主要な検討事項の導入のような制度対応は前者で、資料の提出遅れ・差戻し・期末集中・見積り根拠の不足は後者だ。この二つを分けずに値切ると、削られるのは自社起因の非効率ではなく監査法人側の余裕であり、期末の詰めが逆に厳しくなる。自社起因の分は値引きではなく改善計画で返し、制度起因の分は他社水準と並べて確かめ、残った差だけを交渉の対象にする。そして絶対に交渉の対象にしてはいけないものが一つある。監査手続の範囲だ。値引きの見返りに手続を減らす合意は、監査役等の同意の対象にならない。
決定の構造を取り違えると、交渉が始まらない#
報酬の議論を財務部門と監査法人の二者間の交渉だと捉えていると、話が進まない理由が分からなくなる。会社法399条が置いているのは、取締役が定め、監査役等が同意するという二段の構造である。
この構造には理由がある。監査を受ける側が監査人の報酬を自由に決められるなら、報酬を通じて監査の厳しさを左右できてしまう。だから同意という歯止めが入る。CFOが「安くしろ」と押し切れる建て付けにはなっていない。 そして、押し切れないことは不便ではない。監査役等の同意という手続があるからこそ、CFOは「経営として値切った」ではなく「工数の妥当性を検証した」という立場で交渉できる。
同意が形式で流れている会社は、この利点を捨てている。監査役に決裁書だけ回して押印をもらう運用では、増額の中身は誰も検証しないまま通る。翌年も同じ理由で上がる。
同意理由が事業報告に載る、という制約から逆算する#
会社法施行規則第126条第2号は、事業報告に報酬等の額と、監査役等が法399条1項の同意をした理由を記載することを求めている。ここから、書ける理由と書けない理由が決まる。
書けないのは、金額の水準そのものを根拠にする説明だ。前期並みである、業界平均を下回っている、値引き交渉の結果である。どれも監査の妥当性を説明していない。
書けるのは、監査計画の内容に照らして工数が妥当であるという説明である。監査時間の見積り、対象範囲、リスク評価の変化、前期からの増減要因。つまり、事業報告に書ける形の材料を用意することが、そのまま交渉の準備になる。 CFOが監査法人に求めるべきは値引きではなく、この材料である。
求める内訳は三つでいい。第一に、職階別の単価と時間。パートナー、マネジャー、スタッフの構成が変われば、時間が同じでも金額は動く。第二に、前期からの増減要因を工数ベースで。どの手続が何時間増えたのか。第三に、増加分のうち会社側の事情に起因する部分。ここは向こうから自発的には出てこない。聞けば出る。
増額への向き合い方は三つある。どこに手を入れるかで、翌期に残るものが違う。金額で押し返す値切る
今期の削減額
●●○
翌期への効果
●○○
監査役等への説明力
●○○
「高い」「前期並みに」で交渉する。削れることはあるが、削られるのは監査法人側の余裕であり、自社の非効率は残る。翌期は同じ理由でまた上がる。事業報告に書ける同意理由も作れない。
範囲で調整する手続を減らす
今期の削減額
●●●
翌期への効果
●○○
監査役等への説明力
●○○
値引きの見返りに手続や往査を減らす。短期的には最も効くが、監査の品質に触れる合意であり、監査役等の同意の対象にならない。交渉のテーブルに載せてはいけない選択肢である。
工数で返す自社起因を落とす
今期の削減額
●○○
翌期への効果
●●●
監査役等への説明力
●●●
資料の提出遅れ、差戻し、期末集中、見積り根拠の不足。監査法人が追加で使った時間の実績を出させ、改善計画として返す。今期の金額はほとんど動かないが、翌期の見積りの前提が変わる。
値切ると翌期も同じ議論が来る。手続を削ると監査役等の同意が取れない。自社起因の工数を落とすことだけが、翌期に効果を残す。
制度起因の工数は、交渉しても落ちない#
工数の増加には、会社の努力では動かせない部分がある。ここを交渉の対象にすると、時間だけが失われる。
代表的なのが監査上の主要な検討事項(KAM)だ。企業会計審議会は平成30年7月5日に「監査基準の改訂に関する意見書」を公表し、監査報告書における監査上の主要な検討事項の記載を導入した。実施時期は、意見書の「三 実施時期等」1において、監査上の主要な検討事項については平成33年3月決算に係る財務諸表の監査から適用するとされ、それ以前の決算に係る監査から適用することも妨げないとされている。
内容も押さえておきたい。改訂後の監査基準は、第四 報告基準 二において、監査報告書に別区分を設けて記載する事項の一つとして「当年度の財務諸表の監査の過程で監査役等と協議した事項のうち、職業的専門家として当該監査において特に重要であると判断した事項」を挙げている。KAMの候補は、監査役等との協議事項の中から選ばれる。 つまり監査役等は、どの論点に監査工数が集中しているかを知る立場にいる。報酬の同意を実質化する材料は、すでに監査役等の手元にあるということだ。
CFOがここで打てる手は、交渉ではなく前倒しである。KAMの候補となる論点を期中に監査役等と共有し、必要な資料を先に整える。論点が期末に立つと、そこから追加の手続が積み上がる(監査法人の指摘が期末に集中する会社の共通点|論点を前倒しする四半期の使い方)。
自社起因の工数は、測れば数字で出る#
増額の理由が「工数の増加」で止まってしまうのは、自社起因の部分を誰も測っていないからだ。だが監査法人はこの記録を持っている。
出させるものは四つでいい。依頼資料(PBC)リストの提出期日と実際の提出日。差戻しの件数と理由。追加質問の件数。期末に集中した手続の時間。これらは監査調書の管理上、多くの監査チームが把握している。
数字が出ると、議論の性質が変わる。「うちの資料が遅いから」という感覚論が、「四半期レビュー時の差戻しが◯件、そのうち◯件は残高明細の不備」という事実になる。ここまで来れば、翌期の改善対象は自ずと決まる。PBCの回し方そのものを設計し直すのが早い(監査法人の資料依頼(PBCリスト)の回し方|期末に締めと監査が衝突しない分担)。
工数を押し上げる典型は三つに集約されることが多い。第一に、残高の裏付けが揃っていないこと。勘定明細が試算表と合わない、証憑が探せない。ここは監査人が代わりに探す時間になる(勘定残高の証憑突合と勘定明細レビュー:四半期レビューに耐える残高保証の作法)。第二に、見積りの根拠が文書化されていないこと。引当や評価の水準を誰がどう決めたかが残っていないと、監査人は根拠を一から作らせることになる(引当金の見積りは誰が決めるか|数字を作る人と水準を決める人を分ける社内ルール)。第三に、内部統制の運用証跡が揃わず、統制に依拠できないために実証手続が厚くなること(J-SOX財務報告内部統制:3点セットを形骸化させない更新運用の実務)。
この三つはいずれも、監査のための作業ではない。自社の決算の品質そのものである。 監査報酬の交渉を入口にして決算の手離れを直す、という順序で捉えると、投じる労力の意味が変わる。
監査法人の交代は、初年度の見積りで比較しない#
増額を受け入れられない場合、監査法人の交代は選択肢に入る。ただし、初年度の見積りをそのまま比較して判断するのは早い。
初年度監査には、継続監査にはない手続が加わる。日本公認会計士協会の監査基準報告書510「初年度監査の期首残高」は、初年度監査における監査人の目的を、期首残高に当年度の財務諸表に重要な影響を及ぼす虚偽表示が含まれているかどうか、および期首残高に適用した適切な会計方針が当年度の財務諸表に継続して適用されているかどうかについて、十分かつ適切な監査証拠を入手することと定めている。加えて、監査人の交代に伴う引継ぎの手続もある。
だから、交代初年度の報酬が下がったとしても、それが継続的な水準を意味するとは限らない。判断するなら、初年度ではなく二年目以降の想定を出させたうえで比較する。そして交代の理由が「値段」だけである場合、その説明を事業報告の同意理由として書けるかどうかを先に考えておく。
現場では
売上五百億円規模の上場企業で、監査報酬の増額が三期続いた。三期目に届いた見積りは前期比で二割増。経営会議では「他の法人からも見積りを取るべきだ」という意見が出た。CFOはその前に、増額の内訳を求めた。出てきたのは職階別の時間と単価、そして前期からの増減要因の一覧だった。増加時間のうち、制度対応と新規子会社の往査で説明できる部分は半分強。残りは会社側の対応に起因していた。内訳を見ると、四半期ごとの資料提出が期限を平均で数日超過しており、そのたびに監査チームの作業が後ろにずれて期末に寄っていた。差戻しの上位は、在庫評価の根拠資料と、関係会社債権債務の照合表だった。CFOはこの二点を翌期の改善項目に置き、監査役会には内訳と改善計画をそのまま提出した。監査役会は増額に同意し、事業報告には監査計画の内容と工数の妥当性を検証した旨が記載された。翌期の見積りは、前期比で微増にとどまった。改善によって時間が減ったかどうかは、その時点では検証できていない。変わったのは、増額の理由が「工数の増加」で終わらなくなったことだった。翌々期の交渉は、増減要因の一覧を前にして一時間で終わっている。
監査報酬を、コストではなく決算品質の請求書として読む#
監査報酬の増額を「監査法人が値上げしてきた」と読むと、対抗策は交渉しかなくなる。工数の内訳を見ると、別の読み方が出てくる。自社起因の工数は、決算の手離れが悪いことに対して外部から出された請求書である。
この読み替えができると、財務部門の中の優先順位も変わる。締めの日数を削る取り組みは、監査対応の余力を作る取り組みでもある(決算早期化が頭打ちになる理由|締め日数の限界と次の一手の見極め)。監査役等への説明も、コスト削減の報告ではなく決算体制の報告になる。
やる順序は決まっている。内訳を単価と工数に割る。工数を制度起因と自社起因に分ける。自社起因は改善計画で返し、制度起因は他社の開示水準と並べて確かめる。残った差だけを交渉の対象にする。監査手続の範囲は、最後まで対象に入れない。
まとめ
監査報酬はCFOが単独で決める数字ではない。会社法第399条第1項は、取締役が会計監査人または一時会計監査人の職務を行うべき者の報酬等を定める場合に、監査役(監査役が二人以上ある場合はその過半数)の同意を得なければならないとし、監査役会設置会社では監査役会(同条第2項)、監査等委員会設置会社では監査等委員会(第3項)、指名委員会等設置会社では監査委員会(第4項)に読み替わる。さらに会社法施行規則第126条第2号は、会計監査人設置会社の事業報告に、各会計監査人の報酬等の額と、当該報酬等について監査役等が法399条1項の同意をした理由を記載することを求めている。ここから、書ける理由と書けない理由が決まる。前期並みである、値引き交渉の結果である、といった金額水準の説明は同意理由にならない。書けるのは監査計画の内容に照らして工数が妥当であるという説明だけであり、その材料を用意することがそのまま交渉の準備になる。求める内訳は三つで足りる。職階別の単価と時間、前期からの増減要因の工数ベースの内訳、そして増加分のうち会社側の事情に起因する部分である。工数のうち制度起因の部分は交渉しても落ちない。監査上の主要な検討事項は、企業会計審議会が平成30年7月5日に公表した「監査基準の改訂に関する意見書」で導入され、同意見書の「三 実施時期等」1により平成33年3月決算に係る財務諸表の監査から適用(それ以前の決算からの適用も妨げない)とされている。改訂後の監査基準 第四 報告基準 二は、監査報告書に別区分を設けて記載する事項として「当年度の財務諸表の監査の過程で監査役等と協議した事項のうち、職業的専門家として当該監査において特に重要であると判断した事項」を挙げており、KAMの候補は監査役等との協議事項から選ばれる。したがって監査役等は、どの論点に工数が集中しているかを知る立場にある。一方、自社起因の工数は測れば数字で出る。依頼資料リストの提出期日と実際の提出日、差戻しの件数と理由、追加質問の件数、期末に集中した手続の時間。これらは監査チームが把握している。押し上げ要因は多くの場合、残高の裏付けが揃っていないこと、見積りの根拠が文書化されていないこと、統制の運用証跡が揃わず実証手続が厚くなることの三つに集約される。いずれも監査のための作業ではなく、自社の決算品質そのものである。ここを値引きで解こうとすると、削られるのは自社の非効率ではなく監査法人側の余裕になり、期末の詰めが逆に厳しくなる。監査法人の交代を検討する場合も、初年度の見積りだけで比較しない。日本公認会計士協会の監査基準報告書510「初年度監査の期首残高」は、初年度監査における監査人の目的を、期首残高に当年度の財務諸表に重要な影響を及ぼす虚偽表示が含まれているかどうか、および期首残高に適用した適切な会計方針が当年度の財務諸表に継続して適用されているかどうかについて十分かつ適切な監査証拠を入手することと定めており、交代に伴う引継ぎの手続も加わる。比較するなら二年目以降の想定を出させる。そして値段だけを理由にした交代を、事業報告の同意理由として書けるかどうかを先に考える。最後に、値引きの見返りに監査手続の範囲を減らす合意は、監査役等の同意の対象にならない。交渉のテーブルに載せてはいけない。
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