購買部から稟議が上がってくる。事務用品、工具、梱包材、保守部品といった間接材の発注を、AIエージェントに任せたいという内容である。 現場の依頼を読み、過去の購買実績とカタログから取引先と品目を選び、発注を出し、納品と請求を照合する。稟議には、権限の設定も書かれている。決裁権限規程では、一件50万円未満の発注は課長決裁、300万円未満は部長決裁で足りる。エージェントには課長と同じ権限を設定するので、規程の変更は要らない。 間接材の発注は一件あたり平均6万円で、月に1,400件ある。CFOが電卓を叩くと、月8,400万円、年間で10億円を超える。 その全額が、規程の上では一件ずつ課長決裁の範囲に収まっている。
金額基準は、人の処理能力を前提にした線である
決裁権限規程が金額で線を引くのは、一件の誤りがもたらす損失の大きさを、決裁する人の格に対応させるためである。50万円の発注を誤っても、損失は50万円で止まる。 課長に任せてよいのは、その損失を課長の判断の範囲で引き受けられるからである。
この線には、書かれていない前提がもう一つある。一人の担当者が一か月に処理できる件数には、上限があるということである。 課長が一日に目を通せる発注は、せいぜい数十件である。だから一件50万円未満という線は、実質的に、一人の課長が一か月に動かせる金額の上限も決めていた。規程は一件の金額しか書いていないが、人の処理能力が累計額の歯止めになっていた。
AIエージェントは、この歯止めを外す。冒頭の購買なら、一件6万円は課長決裁の線の8分の1にも届かないが、月1,400件を積めば8,400万円になる。 規程の上では全件が権限内で、規程違反は一件も起きない。それでも、一人の課長に月8,400万円の発注を任せる規程を書く会社はない。 金額基準をそのまま当てはめると、書いていない累計額の上限が消える(グループ会社の決裁権限規程、親会社が承認する事項の切り分け方)。
誤りは一件ずつではなく、まとめて起きる
金額基準が効いていたもう一つの理由は、人の誤りが一件ずつ独立に起きることである。ある担当者が単価を読み違えても、次の発注で同じ読み違えをするとは限らない。 誤りはばらばらに散り、月次の照合でどれかが引っかかる。
AIエージェントの誤りは、原因が同じなら連続して起きる。取引先のカタログで単価の単位が「個」から「箱」に変わったのを読み違えれば、その品目の発注は、誰かが気づくまで全件で同じように誤る。 取引先から届いたメールや請求書のPDFに書かれた文言を指示と取り違える危険もある。振込先の変更を求める文面を読んだエージェントが、それを処理すべき依頼として扱えば、人を狙ったなりすましの手口が、そのまま処理の流れに入ってくる。 振込先マスタを変更できる人と支払を実行できる人を分けるという統制は、エージェントにもそのまま当てはまる。振込先の変更は、エージェントの権限に入れない(なりすまし送金指示から支払担当を守る、経理の運用と権限の組み直し方)。
誤りがまとまって起きるということは、一件あたりの金額が小さくても、発見までの件数分だけ損失が積み上がるということである。だから上限は、一件の金額ではなく、誤りが続いた場合に発見までに積み上がる額で設定する。
権限は、件数と累計額の上限で書く
AIエージェントに渡す権限は、四つの数字で書く。一件の上限額、一日の件数の上限、取引先ごとの月の累計額の上限、そして全体の月の累計額の上限である。 一件の上限額は、人の決裁の線より低く設定する。分割発注で線をくぐる動きを防ぐため、同じ取引先・同じ品目の発注が短い期間に重なったら、合算して判定することも書く。
そのうえで、エージェントが自分で判断せずに人へ回す条件を決める。前回の単価から一定の幅を超えて動いた場合、過去に取引のない取引先を選んだ場合、振込先や支払条件の変更を伴う場合である。 この三つは、どれも誤りが連続したときに損失が大きくなる入口である。
どの取引を任せるかは、一件の金額と件数の二つの軸で分けると整理しやすい。
エージェントが部品の加工や、顧客に提供する保守作業の外注まで発注するなら、2026年1月1日に施行された中小受託取引適正化法(取適法)への対応も、エージェントの側に組み込む。 取適法の対象となる委託取引で、相手が中小受託事業者に当たる場合は、発注内容の明示、給付を受領した日から起算して60日以内の支払期日、手形払いの禁止といった義務が、発注を出したのが人か機械かに関係なく会社にかかる。ただし、これらの義務がかかるのは、資本金や従業員数の基準で自社が委託事業者に、相手が中小受託事業者に当たる場合である。既製品の購入は委託ではないので対象にならず、自社で使う設備の保守のような自ら用いる役務の委託も原則として対象外である。それでも、エージェントが扱う発注に部品の加工や顧客向けの作業の外注が混ざった時点で、発注の様式から見直しが要る。
止める人と、ログを読む人を別に置く
上限を書いても、それだけでは足りない。上限の内側で誤りが続いた場合に、それに気づいて止める人がいなければ、上限まで損失が積み上がる。
役割は三つに分ける。権限を渡す人、止める人、ログを読む人である。 権限を渡すのは、エージェントに処理を任せる部門の長である。止めるのは、その部門の外にいて、エージェントを即座に停止できる権限を持つ人である。処理を任せた部門の長は、処理量が落ちることを嫌うので、止める役を兼ねさせない。 ログを読むのは、発注にも支払にも関与しない人で、経理か内部監査が向いている。
この分け方は、実施基準が統制活動の例として挙げる、取引の承認、取引の記録、資産の管理をそれぞれ別の者に担当させるという職務の分掌を、エージェントの運用に写したものである(SAPの権限設計と職務分掌(SoD)、内部統制を仕組みで担保する実務と判断基準)。ログを読む人は、全件を読む必要はない。 人へ回された例外の全件と、エージェントが自分で処理した取引からの抽出を、週に一度読む。読む頻度は、上限の設計と組にして決める。 損失がどこで止まるかは、誤りの原因がどこまで広がっているかで二段に分かれる。一つの取引先のカタログの変更のように、原因が一社に閉じていれば、取引先ごとの月の累計上限が300万円なら、発見が一か月遅れても損失は300万円で止まる。 だがモデルの更新や指示文の変更のように、全ての発注に共通する原因で誤りが起きれば、取引先ごとの上限はどれも止めてくれず、止まるのは全体の月の累計上限である。だから全体の月累計上限は、共通の原因で誤りが一か月続いた場合に会社が引き受けられる額に設定する。 週に一度読めば、どちらの場合も、実際に積み上がる額はその上限より小さくなる。
ログそのものの要件もある。エージェントが何を読み、どの候補を比べ、なぜその取引先と単価を選んだかが、後から追える形で残っていること。 実施基準が、電子記録に変更の痕跡が残り難い場合は無効化が生じても発見が遅れると注意しているのは、この点に関わる。誰がいつエージェントの設定や指示文を変えたかも、同じログに残す。 発注の判断を追えても、その判断を作った設定の変更が追えなければ、誤りの原因にたどり着けない(経理のAI活用はどの工程に効くか、突合の差異調査と文書化から始める)。
権限を渡す前に、統制上の責任者をCFOが指名する
最後に決めるのは、エージェントが出した発注は、社内の規程の上で誰の決裁なのかである。エージェントが出した発注も、原則として会社の発注として扱われる。取引先から見れば、会社が発注したことに変わりはない。だが社内で誰の決裁かが決まっていなければ、誤りが見つかったときに説明する人がいない。
規程には、エージェントによる発注を、指名した統制上の責任者の決裁とみなすと書く。その責任者の権限は、一件の上限額と累計額の上限の両方で縛る。 責任者は、上限の設定、止める人とログを読む人の選任、エージェントの設定や提供者のモデルの変更の承認を持つ。提供者の側でモデルが更新された場合に、再検証を終えるまで上限を引き下げるかどうかも、この責任者が決める。 自動化された統制として一度評価すれば使い続けられる、という実施基準の前提が立たない以上、変更のたびに確かめ直す人がいなければならない。
指名はCFOが行う。購買や経費精算にエージェントを入れる話は、たいてい現場の効率化の提案として上がってくる。 提案した部門の中で責任者を決めると、止める判断が処理量の目標とぶつかる。財務報告と資金の出口に責任を持つ立場から、権限を渡す前に名前を決める。 効果の見積りと投資の判断はそのあとでよい(生成AI投資の承認基準、効果が測れない投資を段階ゲートで審査する方法)。
売上高450億円の精密部品メーカー(3月決算)。間接材の購買に、AIエージェントを3か月試行した。 対象は事務用品、工具、梱包材、保守部品で、試行期間の発注は3,900件、合計2億1,000万円だった。権限は決裁権限規程の課長決裁に合わせ、一件50万円未満とした。問題は2か月目に出た。 ある梱包材の取引先がカタログを改訂し、単価の単位を「個」から「箱」に変えた。エージェントはその品目の発注数量を個のまま計算し、3週間で38件、合計460万円の過大な発注を出した。 一件あたりは平均12万円で、どれも権限の内側だった。見つけたのは購買部ではなく、倉庫の受入担当である。経理が月次の照合で気づいたのは、その後だった。 取引先との協議で一部は返品できたが、残りは在庫として引き取っている。CFOは試行を止めずに、権限の書き方を組み替えた。一件の上限を30万円に下げ、一日80件、取引先ごとの月累計300万円、全体の月累計6,000万円の上限を置いた。 前回の単価から15パーセントを超えて動いた発注、過去1年に取引のない取引先、振込先や支払条件の変更を伴うものは、エージェントが処理せず人へ回す。止める権限は購買部長ではなく管理部の統制責任者に持たせ、ログは経理の担当者が週に一度、人へ回された例外の全件と、エージェントが処理した取引から抽出した30件を読む。 統制責任者はCFOが指名し、規程には、エージェントによる発注を統制責任者の決裁とみなすと書き加えた。全体の月累計6,000万円は、モデルの更新のような共通の原因で誤りが続いた場合に止まる額でもあるので、提供者がモデルを更新した週は、再検証が終わるまでこの上限を半分に下げる手順も入れている。 組み替えた後の2か月で、人へ回された発注は全体の6パーセントだった。そのうちの一件が、別の取引先が値上げの通知と同時に送ってきた振込先の変更依頼である。 依頼は購買部と経理が台帳の番号で取引先に確認し、なりすましだったことが分かっている。
※想定事例として、業種・規模・数値を設定して構成している。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。
決めるのは三つ
第一に、権限を一件の金額ではなく、件数と累計額の上限で書く。 決裁権限規程の金額基準は、一人が処理できる件数に上限があることを暗黙の前提にしていた。AIエージェントはその前提を外し、一件6万円・月1,400件なら、一件ずつは課長決裁の範囲に収まったまま月8,400万円になる。一件の上限額、一日の件数、取引先ごとの月累計、全体の月累計の四つを書き、分割発注は合算して判定する。 単価の大きな変動、新規の取引先、振込先や支払条件の変更は人へ回し、振込先の変更はエージェントの権限に入れない。加工や外注の委託まで発注させ、自社と相手が取適法の規模の基準に当たるなら、発注内容の明示と60日以内の支払期日を発注の様式に組み込む。
第二に、権限を渡す人、止める人、ログを読む人を別の人にする。 エージェントの誤りは一件ずつ独立に起きず、同じ原因で連続して起きるため、上限の内側で誤りが続けば上限まで損失が積み上がる。止める人は処理を任せた部門の外に置き、ログを読む人は発注にも支払にも関与しない経理か内部監査から選ぶ。 例外の全件と抽出を週に一度読み、読む頻度を累計上限と組にして決める。誤りの原因が一社に閉じていれば取引先ごとの上限で止まるが、モデルの更新のような共通の原因なら止まるのは全体の月累計上限なので、全体の上限は共通の原因で誤りが一か月続いても引き受けられる額で置く。 ログには、判断の経緯と、設定や指示文の変更の履歴の両方を残す。
第三に、権限を渡す前に、統制上の責任者をCFOが指名する。 財務報告に係る内部統制の実施基準は、ITを利用した内部統制も原則として毎期評価するとしたうえで、自動化された内部統制が一度設定されると変更やエラーが発生しない限り一貫して機能するという性質を根拠に、過年度に不備なく有効と評価され、変更も不具合もなく、関連する全般統制が有効に機能していると判断でき、その結果を記録した場合に限って、評価結果の継続利用を認めている(その場合に一定の複数会計期間に一度運用状況のテストを行う方法も注記されている)。同じ入力に同じ出力を返すとは限らず、提供者の側で更新されるエージェントには、この一貫性の前提が立たない。 規程にはエージェントによる発注を責任者の決裁とみなすと書き、責任者に上限の設定、止める人とログを読む人の選任、モデルの変更時の再検証と上限の引下げの判断を持たせる。
AIエージェントに発注や支払を任せるなら、人向けの金額基準をそのまま流用しない。権限は一件の上限額、一日の件数、取引先ごとの月累計、全体の月累計の四つの数字で書く。
全体の月累計は、モデルの更新のような共通の原因で誤りが一か月続いても引き受けられる額に置く。その上限と、止める人・ログを読む人の選任を誰が持つのか。権限を渡す前に、その統制上の責任者をCFOが指名しておく。



