市場価値を上げたいと思ったとき、多くの経理パーソンがまず手を伸ばすのが資格だ。簿記1級、USCPA、税理士科目——勉強を積み増せば評価も上がる、という感覚がある。だが実際に転職市場で値がつくのは、資格欄ではなく職務経歴書の「何をやってきたか」の欄だ。市場価値を決めるのは資格の数ではなく、他の人が持っていない実務経験の順列である。 本稿は、希少性の上がる経験を積む順序を設計図にし、今の会社で取りに行けるものと、転職でしか得られないものを率直に切り分ける。

この記事のポイント
資格は入場券であって、価値の本体ではない。市場価値は「再現性のある希少経験」で決まる。単体決算→連結→IFRS/開示→IPO/M&Aと、上へ行くほど経験できる人が減る。この順序を設計図として持ち、今の会社で取れる経験を取り切り、取れないものだけを転職の理由にする。

資格は入場券、価値を決めるのは経験の希少性

誤解を解くところから始めたい。資格が無意味なのではない。簿記2級は書類選考を通す入場券として効くし、USCPAや税理士は特定の場面で確かに効く。だが資格は「持っている人が一定数いる」から、それ単体では差がつきにくい。採用側が本当に見ているのは、**「この人にしか任せられない仕事があるか」**だ。

その差を生むのが、実務経験の希少性である。海外子会社を含む連結決算を一人で組める、IPOの申請書類(Ⅰの部)を書いた、M&Aの財務デューデリジェンスに買い手側で入った——こうした経験は、勉強では身につかず、その場に居合わせなければ得られない。だから希少で、値がつく。市場価値の設計とは、この希少経験をどう取りに行くかの設計にほかならない。

希少性が上がる経験の順序を設計図にする

希少経験は、やみくもに集めるものではない。積む順序がある。土台となる単体決算をおろそかにしたまま連結だけ齧っても、実務では通用しない。下の階段は、上へ行くほど経験できる人が減り、市場価値が上がる並びだ。

希少性が上がる経験を、下から順に積み上げる
STEP 1
単体決算・税務
すべての土台。仕訳から月次・年次決算、税務まで自力で回せる状態
STEP 2
連結決算
子会社の数字を集約し内部取引を消去。単体との間に市場の段差がある最初の壁
STEP 3
IFRS・開示
国際会計基準の適用、有価証券報告書や注記の作成。上場企業の開示責任を担う
STEP 4
IPO・M&A
上場準備の申請実務、買収の財務デューデリジェンスやPMI。経験者が最も少ない希少枠
土台下の段が土台になって初めて、上の段の経験が実務として身につく。連結を知らずにM&Aの数字は読めないし、開示を知らずにIPOは回せない。だから順序を飛ばさず、一段ずつ「一人で回せる」状態にしてから上を狙う。
市場価値は、この階段のどこまで自力で登ったかで決まる。

要点は、各段を「見たことがある」で止めず、「一人で回せる」まで持っていくことだ。連結決算に部分的に関わった経験と、連結パッケージの回収から資本連結・換算まで仕切った経験では、市場での評価が別物になる。浅香がSAP財務会計の導入現場で繰り返し見てきたのも、「関わった」人は多いが「回せる」人が希少だという現実だった。

今の会社で取れる経験と、転職でしか取れない経験

設計図を描いたら、次は各段の経験を「どこで取るか」を仕分ける。ここを曖昧にすると、社内で取れるはずの経験のために転職してしまったり、逆に社内では絶対に発生しない経験を待ち続けたりする。

経験は、社内で取りに行けるものと転職でしか得られないものに分かれる
BEFORE
今の会社で取りに行ける
連結や開示の担当に手を挙げる、決算早期化の改善に関わる、システム更新プロジェクトに入る。異動と手挙げで届く範囲。まずここを取り切る。
AFTER
転職でしか得られない
非上場企業にはIPO実務が存在せず、M&Aの無い会社に買収DDの経験は生まれない。会社に無い経験は、その経験がある会社へ移るしかない。
社内で取れる経験を取り切ってから、残りだけを転職の理由にする。

この切り分けが、転職の判断を冷静にする。「なんとなく市場価値のため」ではなく、「この会社の構造上、次の段(例:IPO)は発生しないから移る」と言えるようになる。逆に、まだ社内で取れる経験を残しているなら、転職は急がなくていい。異動や手挙げで届く経験を先に取り切るほうが、リスクなく市場価値を積める。

経験の順序が効いた例
中堅メーカーで単体決算と税務を5年回してきたC氏。市場価値を上げたいと資格の勉強を始めたが、伸び悩んだ。転機は、社内でグループ会社が増えたタイミングで連結決算の立ち上げに手を挙げたこと。単体の土台があったから連結を一人で回せるようになり、その実績を携えて上場企業の経理へ移った。移った先でIFRS適用プロジェクトに入り、次の希少経験を積んでいる。資格を増やすのでなく、土台の上に一段ずつ希少経験を重ねたことが、市場価値を動かした。

経験を「取りに行く」動き方

最後に、経験は待っていても降ってこない、という当たり前を確認しておきたい。連結の担当は、手を挙げなければ既存の担当者が抱え続ける。IPOやM&Aのプロジェクトも、「やりたい」と表明している人から声がかかる。市場価値の設計とは、階段のどこにいるかを把握し、次の一段を取りに行く動きを、意図的に起こすことだ。年収がどの要因で決まるかを構造で理解しておくと、この動きの狙いが定まる(経理の年収はどこで決まるか|業務難易度・連結・上場の3要因で読む)。事業の数字に踏み込む経験を積みたいなら、経理から事業部への越境も有効な一手になる(経理から事業部門へのローテーション|数字を作る側から使う側へ)。買収の財務調査という希少経験の中身は、別稿で具体化した(M&Aの財務デューデリで見る勘所)。

まとめ
市場価値は資格の数でなく、再現性のある希少経験で決まる。単体決算→連結→IFRS/開示→IPO/M&Aと、上へ行くほど経験できる人が減る階段を、飛ばさず一段ずつ「一人で回せる」まで登る。各段の経験は、今の会社で取りに行けるもの(連結・開示・改善に手を挙げる)と、転職でしか得られないもの(社内に構造上発生しないIPO・M&A)に分かれる。社内で取れる経験を取り切ってから、残りだけを転職の理由にする。経験は待つものでなく、意図的に取りに行くものだ。

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