昇給原資の配分を決める会議で、経理部長が一覧表を前に手を止めている。上から三人目は入社五年目の税務担当で、今期は法人税の申告書を初めて自社で組み上げ、税務調査では主担当として調査官の質問に答えた。昇給額は月額六千円。 二行下にいる勤続二十六年の担当は、支払と経費精算の確認を同じ手順で十年続けており、昇給額は月額七千円。部長は前者に厚く配りたいが、配り方は号俸表が決めている。 評価を「A」に上げても、号俸の上がり幅が一段変わるだけで、差は逆転しない。部長の手元にある道具は、どれも勤めた年数に値段をつけるものだった。 仕事の重さに値段をつける道具は、一つもなかった。
年功の報酬テーブルは、難所を担う人から先に失う
号俸表で昇給する制度は、全員の給与を勤続に応じて一律に押し上げる。この仕組みが経理で特にまずいのは、仕事の難易度の分布が極端に偏っている部門だからである。
経理の仕事の大半は、手順が決まっている。請求書の計上、支払、入金消込、経費精算、固定資産の登録。難易度が跳ねるのは、連結、税効果、開示、税務申告、組織再編の会計処理といった一部の領域で、担当者は数人しかいない。 そしてこの数人の値段は、社外の市場で決まっている(経理の年収は何で決まるのか、業務難易度・上場区分・会社規模の3要因)。
年功のテーブルの下では、市場価格と社内給与の差が人によって逆向きに開く。難所を担う若手は市場価格が社内給与を上回り、定型業務を長く担う人は社内給与が市場価格を上回る。 前者には外に出る理由があり、後者には残る理由がある。長く勤めた人に非があるわけでもなく、勤続に値段をつける仕組みそのものが、難所の担い手を毎年少しずつ押し出す。 そして辞めた人の後任を外から採るとき、会社は結局、市場価格を払う。
等級を役職の数で切ると、ポストが埋まった時点で昇格が止まる
年功を改めようとしてよく取られるのが、役職の階段を等級にする方法である。担当、主任、係長、課長。 役職に報酬を紐づければ、少なくとも勤続だけでは上がらなくなる。
問題は、経理の役職の数が少ないことである。十数人の部門で課長のポストは一つか二つで、埋まっていれば何年も空かない。 役職で等級を切ると、連結や税務の難所を担う人は、上が空くまで同じ等級に留まる。仕事の難易度は上がり続けているのに、格付けは動かない。 その間に市場価格は上がる。
管理職ではない上位等級として専門職コースを置く方法もあるが、それは等級の最上段の話である(経理に専門職コースを置くか、管理職を経ないと報酬が上がらない設計の問題)。ここで扱うのは、その手前の全段である。 入社して最初の等級から専門職の手前まで、どの段で何を任せれば上がるのかが書かれていなければ、専門職コースは一部の人の救済策にしかならない。
等級を切る単位は、任せられる判断の範囲である
では何で切るか。既存メンバーとの逆転を洗い出す段階では、単体・連結・開示・税務の業務名で升目を作るのが早い(経理の中途採用で提示年収が既存メンバーを逆転するとき、是正する順番)。ただし等級そのものを業務名で固定すると、同じ担当の中の転記と論点判断を区別できない。 たとえば「連結担当は等級4」と決めると、連結の中にある転記作業も論点判断も同じ等級に入る。逆に単体の担当でも、引当金の見積りや減損の兆候判定を任されている人は、明らかに手順以上の仕事をしている。
切るべきは、業務の名前ではなく、その人に任せている判断の型である。経理の判断は、大きく三層に分かれる。
第一層は、手順を守る判断である。 規程とマニュアルに従って処理し、手順から外れるものを見つけて上に上げる。単体の記帳、支払、消込、経費精算の大半がここに入る。求められるのは正確さと、例外に気づく目である。 判断の余地はあるが、その判断は「手順どおりか否か」に閉じている。
第二層は、基準を当てはめる判断である。 会計基準や開示府令、税法の規定を目の前の事実に当てはめ、処理を決める。連結の資本連結や未実現利益の消去、税効果の回収可能性の検討、開示書類の作成、新しい契約の収益認識の判定がここに入る。正解は基準の中にあるが、事実のどこを拾うかで結論が変わる。 監査法人と論点を詰め、合意まで持っていけるかどうかが、この層の力量を分ける。
第三層は、方針を選ぶ判断である。 法令が選択肢を認めている領域で、会社としてどちらを採るかの案を作り、経営に上げる。グループ通算制度を選ぶか、組織再編で適格要件を満たす形に組むか、グループ内取引の価格をどう決めるか、会計方針の選択肢のどちらを採るか。 正解は基準の中になく、会社の事情と将来の見通しから決める。結論次第で税負担や業績の見え方が動くので、任されるのは処理より、提案とその根拠になる。
三層は、担当する部署ではなく判断そのものの性質で決まる。 単体の担当でも減損の兆候判定を任されていれば第二層の仕事をしており、連結の担当でも子会社から来た数字の転記しかしていなければ第一層に留まっている。等級はこの三層に、それぞれ「指導を受けて行う」「独力で行う」「他者に教え、レビューする」の段を掛けて作る。 三層三段で九つの升目になり、勤続年数はどの升目にも関係しない。
縦軸と横軸を分けておくことには、実務上の意味がある。開示資料の転記は、誤れば社外に出る。だから重要な仕事に見え、担当者の等級を上げたくなる。 しかし転記の誤りを防ぐのは、担当者の等級より、照合の仕組みとレビューのほうである。影響の大きさを等級に混ぜると、重要な書類を触っている人が昇格し、重要な判断をしている人が据え置かれる。
報酬は範囲給にして、上限で年功の伸びを止める
等級を判断の型で切っても、各等級の中の報酬が号俸表のままなら、同じ等級に長くいるだけで給与は上がり続ける。等級の中でも年功が続く。 これを止めるのが範囲給である。
範囲給は、等級ごとに下限と上限を持つ報酬の幅である。等級の中での位置は、その等級に求められる判断をどれだけ安定して任せられるかで決まり、上限に達した人は、上の等級に上がらない限りそれ以上は上がらない。 勤続による伸びは、上限のところで止まる。
ただし号俸表による昇給を賃金規程に定めている会社では、上限の導入は、上限到達者にとって労働条件の不利益な変更になり得る。 労働契約法第10条の合理性(変更の必要性、不利益の程度、経過措置の有無など)を満たす形で入れ、労働基準法第90条の意見聴取を経る。次節の調整給は、その経過措置でもある。
設計で先に決めるのは三つである。第一に、各等級の中央値を何に合わせるか。 第二層と第三層は社外の市場で値段が決まる仕事なので、中央値の水準を市場から取らないと、どれだけ精緻に等級を切っても流出は止まらない。第二に、隣り合う等級の幅をどれだけ重ねるか。 重ねすぎると昇格しても給与が変わらず、重ねなければ昇格時に大きな跳ねが生じる。第三に、上限に達した人に何で報いるか。 基本給を上げない代わりに、賞与の評価で差をつける。基本給は仕事の大きさ、賞与はその期の成果、と役割を分けておく。
範囲給にすると、昇給の原資を等級の中の位置で配分できる。 中央値より下にいる人に厚く、上にいる人に薄く配る。難所を担って若くして上位等級に上がった人は、等級の下限付近にいるので、昇給の配分が厚くなる。 年功のテーブルとは逆向きの誘因が、計算式の側で生まれる。
移行は「下げない」を前提に、上限を超える人に調整給を置く
年功で昇給してきた部門で全員を格付けし直すと、新しい等級の上限を超える給与をもらっている人が出る。 長く第一層の仕事を担ってきた人である。
ここで基本給を新しい上限まで下げる案は、実務上ほぼ通らない。就業規則の変更で賃金を不利益に変更するには、労働契約法第10条により、労働者の受ける不利益の程度、変更の必要性、変更後の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況などに照らした合理性が問われる(経理の中途採用で提示年収が既存メンバーを逆転するとき、是正する順番)。そして何より、長く勤めた人の給与を下げる制度改定は、残る人全員の士気を下げる。
採るべき形は、超過分を調整給として切り出し、据え置くことである。 基本給は新しい等級の上限に置き、差額を調整給として別に支給する。調整給は昇給の対象にしない。本人が上の等級の判断を任されるようになれば、昇格による基本給の上昇で調整給を吸収する。 上がらなければ、調整給はそのまま残る。下げないが、それ以上は伸びない。 年功の伸びは、この時点で止まる。
ただし、据え置きにも不利益の側面はある。旧制度の号俸表で毎年見込めていた昇給が止まる以上、これも就業規則の変更による労働条件の変更として、合理性の説明が要る。 移行の手続きでは、据え置きの対象者と金額、上の等級に上がる道筋、そして賞与で報いる仕組みを同じ資料に並べ、改定の必要性とあわせて説明する。あわせて、賞与と退職金の算定基礎に調整給を含めるかを先に決めておく。 基本給連動で賞与や退職金を計算している会社では、調整給を算定基礎から外せば、月例給は下がらなくても年収と退職金が下がる。下げない設計で小さくできるのは、争点の数までである。
調整給の対象者には、上の等級に上がるには何の判断を任されればよいかを、三層三段の升目で示す。 第一層で長く働いてきた人の中には、引当金の見積りや減損の兆候判定のような第二層の仕事に移れる人もいる。勤続で報いていた制度が隠していたのは、その人に第二層の仕事を渡してこなかったという事実でもある。
昇格は、任せた判断の記録で決める
最後に、昇格の判定である。判断の型で等級を切った以上、昇格の根拠も判断の実績でなければならない。 「よく頑張った」「ミスがなかった」では、第一層の中での評価はできても、第二層に上げる根拠にはならない(経理の人事評価が機能しない理由と、ミスの減点を成果指標に変える方法)。
根拠になるのは、この一年でその人が独力で決めた判断の記録である。税効果の回収可能性の検討を単独で組み、レビューで結論が覆らなかった。新しい契約類型の収益認識を判定し、監査法人の合意を取った。これらは決算の資料と監査法人とのやりとりの中に、日付つきで残っている。 決算のたびに一行ずつ溜まっていく記録である。
任せていない判断は、記録に残らない。 昇格させたい人がいるなら、先に第二層の判断を渡し、レビューを付けて一期任せる。等級は、任せた後で上げる。 この順番を守ると、昇格の根拠を本人にも他のメンバーにも説明できる。
決めるのは三つ
第一に、等級を役職の数でも業務の名前でもなく、任せている判断の型で切る。 手順を守る判断、基準を当てはめる判断、方針を選ぶ判断の三層に、指導を受けて行う・独力で行う・他者をレビューするの三段を掛ける。厚生労働省の職務評価マニュアルも、勤続年数と役職を評価項目に入れていない。ただし同マニュアルの「経営への影響度」は業績を動かす仕事の大きさで、ここで等級から外した「誤ったときに社外へ出る影響」とは別物である。業績を動かす判断を任されていることは、第三層の定義に含まれている。 誤ったときの影響の大きさはレビューの厚さで扱い、重要な書類を触っているというだけで昇格させない。
第二に、報酬を範囲給にし、上限で年功の伸びを止める。 各等級の中央値は、第二層と第三層については社外の市場から取る。隣り合う等級の重なりの幅を決め、上限に達した人には基本給ではなく賞与で報いる。昇給原資は等級の中の位置で配分し、下限付近にいる人に厚く配る。 難所を担って若くして上がった人ほど配分が厚くなり、年功のテーブルとは逆の誘因が働く。
第三に、移行では下げず、上限を超える分を調整給として据え置く。 調整給は昇給の対象にせず、上の等級の判断を任されて昇格すれば吸収する。賞与と退職金の算定基礎に含めるかも、改定の前に決めておく。対象者には、どの判断を任されれば上がるのかを升目で示し、第二層の仕事を実際に渡す。 昇格は、任せた判断の記録で決める。記録は決算の資料と監査法人とのやりとりの中に、日付つきで残っている。
売上高380億円の精密機器メーカー。経理部は部長を含めて14名で、等級は担当・主任・係長・課長の四段、各等級の中は号俸表で昇給していた。三年間で、連結担当2名と税務担当1名が退職している。 三人とも三十代前半で、退職時の等級は主任だった。後任はいずれも外部から採用し、提示した年収は三人とも、同じ仕事をしていた前任者より高かった。 新任の経理部長が最初に作ったのは、全員の担当業務を判断の型で分けた一覧である。14名の業務を約120の作業に分け、それぞれが手順を守る判断か、基準を当てはめる判断か、方針を選ぶ判断かを部内で判定した。 延べ二週間かかっている。結果、第三層に当たる作業を担っていたのは部長と課長の2名だけで、第二層の作業は6名に分散していた。 その6名のうち3名が主任、1名が担当の等級だった。逆に係長の1名は、担当業務の九割が第一層の作業だった。 新しい等級は三層三段の九区分とし、報酬は各区分に範囲給を置いた。第二層と第三層の中央値は、過去の外部採用で実際に提示した年収と、人材紹介会社から取り寄せた求人の提示レンジを参照して決めている。格付けし直すと、14名中4名が新しい上限を超えた。 超過額は月額で最大6万8,000円、4名の合計で年間約230万円である。基本給を上限に置き、差額を調整給として据え置いた。4名には、第二層の作業のうち何を担当すれば昇格の対象になるかを一覧で渡している。 そのうち2名は翌期から引当金の見積りと固定資産の減損兆候の判定を担当し、レビューを付けて一期担当した後、1名が昇格して調整給が吸収された。昇給原資の配分も変わった。 総額は前年と同じだが、範囲給の下限付近にいた第二層の担当者3名に配分の約四割が充てられている。制度改定から二年、連結と税務の担当者の退職は出ていない。 役員会の承認資料に載せた比較は一行だけである。辞めた三人の後任に払った前任者比の上乗せは年間で約450万円、改定で第二層の担当者3名に厚く配った昇給の増分は年間で約160万円。 改定の費用は、流出の費用の半分以下に収まっている。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。



