意向表明の提出期限が一週間後にある。価格レンジは詰まっている。資金の欄には「手元資金及び金融機関からの借入により調達する予定」とだけ書かれている。この一行は、事実上どんな価格でも書ける一行である。 そして数か月後、価格が上振れした局面で資金の制約が持ち出される。そのときには、もう降りられない。 社内では既に案件が既定路線になり、ここまでかけた費用と時間が判断を押す。上限価格を交渉前に文書化しても、資金の上限を同時に置いていなければ、規律は半分しか効かない。
価格の会議と資金の会議を分けると、上限が消える
多くの会社で、価格は経営会議や取締役会で議論され、資金は財務部門が並行して銀行と詰めている。この分業自体は自然だが、二つの会議が別々に走ると、片方の上限がもう片方に伝わらない。
具体的に何が起きるか。財務部門は「この金額なら組める」という感触を持っている。ただしそれは、既存借入の財務制限条項に抵触しない範囲、既存の格付けを維持できる範囲、といった前提付きの数字である。前提は口頭で共有されるが、価格の議論の場には持ち込まれない。 価格が動くたびに前提の一つが静かに壊れ、誰もそれを宣言しない。
だから、意向表明の前に置くべきものは金額ではなく、壊れたら降りるという条件の一覧である。 上限価格の文書化と同じ扱いで、資金側の上限も文書にする(M&Aの上限価格を交渉前に文書化する、降りる判断の規律と手続き)。書き方は「いくらまで出せる」ではなく「どの数字がどこを超えたら降りる」である。
三つの原資には、それぞれ別の切れ目がある
手元資金・借入・株式対価は、性質の違う三つの原資である。同じ「調達額」として足し合わせると、判断を誤る。 それぞれに、金額とは別の切れ目があるからである。
手元資金の切れ目は、運転資本の底である。 決算日の現預金残高から使える額を逆算する会社は多いが、決算日は年間で最も現金が厚い日であることが少なくない。見るべきは月次の最低残高と、支払のピークが来る月の水準である。買収代金を払った翌月に、いつもの支払ができるか。 ここは資金繰り表の精度そのものに依存する(運転資本(CCC)の管理、在庫・売掛・買掛から黒字なのに資金が足りない原因を探る)。
借入の切れ目は、金額ではなく財務制限条項である。 借入余力を「あといくら借りられるか」で測ると、抵触点を見落とす。純資産維持条項、利益維持条項、有利子負債/EBITDAの上限。買収でのれんを積み、EBITDAは統合が終わるまで連結に丸ごと乗らない期がある。分子だけが先に増える。 抵触の判定は四半期ごとに来る(コベナンツ(財務制限条項)の管理、抵触の前に余裕度を四半期で見る)。
株式対価の切れ目は、希薄化ではなく成立要件である。 ここが最も誤解されている。会社法第774条の3第2項が求める下限は、効力発生日に対象会社が子会社となる数である。応募が下限に届かなければ、株式交付は不成立になる。 「7割しか集まらなかったので、残りは現金で買い増す」という設計は、株式交付という制度の中では取れない。したがって株式対価は、手元資金や借入のような可変の枠ではない。使うか使わないかの選択である。
税が、現金と株式の配分を先に決めてしまう
株式対価を検討する会社が、交渉の途中で当たりやすい壁がある。売り手が現金を欲しがることである。 株を受け取っても生活費にも納税資金にもならない、というのは自然な要求である。ここで少しだけ現金を混ぜようという話になる。その「少し」の幅は、税制が決めている。
個人株主が株式を譲渡する場合について、国税庁は、株式等を対価とする株式の譲渡に係る譲渡所得等の課税の特例が 株式交付親会社の株式の価額が交付を受けた資産の価額の合計額のうちに占める割合が100分の80に満たない場合 には適用されないと説明している。さらに、株式交付の直後の株式交付親会社が一定の同族会社に該当する場合も、特例の対象から除かれる。 根拠として挙げられているのは、租税特別措置法第37条の13の4、同法施行令第25条の12の4および令和5年改正法附則第33条である。
実務上の意味は明快である。対価に現金等を混ぜられるのは、全体の2割までである。 そこを超えると、売り手側の課税繰延が消える。売り手はそれを織り込んだ手取り額で価格を要求してくるから、現金比率を上げた分だけ、必要な総額も上がる。 現金と株式の配分は、価格が決まってから調整する変数ではない。価格そのものを動かす変数である。
- 月次の現預金の最低残高はいくらか(決算日残高ではなく、支払のピーク月の底)
- 買収代金を払った翌月に、通常の支払を続けられる水準はいくら残るか
- 既存借入の財務制限条項は何本あり、それぞれの抵触点はどの数字か
- のれんが先に積まれ、対象会社のEBITDAが連結に丸ごと乗らない期の判定日に、条項に当たらないか
- 株式対価を使うなら、株式交付計画の下限をどこに置くか。少数株主の応募が読めているか
- 対価に占める現金等の割合は2割以内か。買い手は一定の同族会社に該当しないか
- 独占禁止法の届出が必要な規模か。必要なら受理から30日をどこに入れるか
- 株式交付を行う場合、効力発生日の前日までに株主総会の承認を得る日程が取れるか
そしてもうひとつ、株式交付親会社が同族会社かどうかで特例の可否が変わる。 オーナー系の買い手企業が株式対価を使う設計を組むなら、この点を税務顧問に確認してから交渉に入る。意向表明を出した後に「実は使えなかった」と分かると、対価の設計を組み直すことになり、価格の再提示につながる。
日程は、資金の側から逆算する
資金の設計で最後に効いてくるのは日程である。ブリッジローンは、実行日と返済期限がセットで決まる。その期限までに恒久的な資金へ組み替える必要があり、組み替えの手段は、社債発行なのか、長期借入なのか、増資なのかで準備期間が違う。
ここに独占禁止法の30日が入る。届出が必要な規模なら、届出受理の日から30日を経過するまで株式の取得ができない。 受理までに事前相談や資料の追加提出が入れば、その分も足される。クロージングが後ろにずれる分、ブリッジの実行も後ろにずれるが、返済期限を先方の融資契約で先に固めていると、実質的な返済猶予だけが短くなる。
もうひとつ、資金の側から日程を縛るのが取締役会と株主総会である。株式交付を行う場合、原則として効力発生日の前日までに株主総会の決議による株式交付計画の承認が要る。臨時株主総会を開くなら招集の期間が要り、定時株主総会に合わせるなら案件の日程がそちらに引きずられる。 対価の設計を後から株式に変えると、この日程が丸ごと後ろに動く。
だから、意向表明の前に決めるのは価格レンジと資金の配分の両方である。 配分が決まれば、必要な機関決定と法定の待機期間が決まり、そこから逆算した日程が出る。日程が出て初めて、ブリッジの期間と金利の見積もりが実務的な数字になる。
売上高680億円の機械部品メーカーが、同業の非上場会社(売上高95億円、オーナーが株式の78%を保有)の買収を検討した。社内で議論された買収価格のレンジは110億円から140億円。財務部門の当初の感触は、手元資金40億円と借入100億円で最大140億円というものだった。 意向表明の起案段階で、CFOが資金側の条件を三つ書き出させている。第一に手元資金である。決算日の現預金は118億円あったが、月次の推移を並べ直すと、賞与と設備投資の支払が重なる月の最低残高は62億円だった。買収代金を払った翌月に通常の支払を続けられる水準として、拠出できるのは30億円が上限と置いている。当初の40億円から10億円下がった。 第二に借入である。既存のシンジケートローンには有利子負債/EBITDAを一定倍率以下に維持する条項が入っていた。買収でのれんが積み上がる一方、対象会社のEBITDAが連結に丸ごと乗るのは翌期からになる。期をまたぐ最初の判定日で、借入100億円を実行すると条項に抵触する試算になった。抵触しない範囲の借入額は78億円である。 第三に株式対価である。オーナーが株式の一部を持ち続ける意向を示していたため、株式交付の検討に入っている。ここで二つの制約に当たった。ひとつは会社法第774条の3第2項で、株式交付計画に定める下限は効力発生日に対象会社が子会社となる数でなければならない。オーナー以外の少数株主22%の動向が読めない段階では、下限をどこに置いても不成立のリスクが残る。 もうひとつは税である。オーナーは納税資金として一定の現金を求めており、現金の割合が2割を超えれば課税繰延の特例は使えない。税務顧問の確認で、買い手が同族会社に該当しないことは確かめられたが、現金比率の制約は動かせなかった。 三つを並べた結果、資金の上限は手元資金30億円と借入78億円の合計108億円になった。社内で議論されていた価格レンジの下限110億円を、資金の上限が下回っている。 意向表明を出す前にこれが分かったことで、選択肢は三つに整理された。株式交付を成立させて総額を上げるか、既存借入の借換えを先に済ませて条項を組み直すか、案件から降りるかである。取締役会は二つ目を選び、シンジケートローンの借換え交渉を先行させた上で、意向表明の提出を三か月遅らせている。 借換え後の余力は借入112億円まで広がり、独占禁止法の届出も必要な規模だったため、届出受理から30日の待機期間をブリッジの期間設定に織り込んだ。最終的な買収価格は124億円で決着している。 CFOの総括はこうだった。最初の140億円という数字は、誰も嘘をついていないのに、三つの制約のどれにも当たっていなかった。当たらない数字を上限と呼んでいた。
※設例。会社、数値は説明のために置いた架空のもので、特定の会社の実績ではない。
決めるのは三つ
第一に、価格の上限と資金の上限を、同じ会議で同じ文書に書く。 「いくらまで出せる」ではなく「どの数字がどこを超えたら降りる」の形で書く。価格の議論と資金の交渉が別々に走ると、財務部門が置いている前提が価格の場に伝わらず、価格が動くたびに前提の一つが静かに壊れる。壊れたことを誰も宣言しないまま、案件は既定路線になる。
第二に、三つの原資を足し算せず、それぞれの切れ目を測る。 手元資金の切れ目は決算日の残高ではなく月次の最低残高であり、支払のピークが来る月に買収代金を払っても通常の支払を続けられるかで決まる。借入の切れ目は借入余力ではなく財務制限条項の抵触点であり、のれんが先に積まれてEBITDAが後から乗る期の判定を試算する。株式対価の切れ目は希薄化ではなく成立要件である。会社法第774条の3第1項第2号は株式交付計画に譲り受ける株式数の下限を定めることを求め、同条第2項はその下限が効力発生日に対象会社が子会社となる数でなければならないとしている。届かなかった分を現金で埋める設計は、制度上取れない。
第三に、現金と株式の配分を、価格の後ではなく前に決める。 個人株主が株式を譲渡する場合について、国税庁は、株式等を対価とする株式の譲渡に係る譲渡所得等の課税の特例が、株式交付親会社の株式の価額が交付を受けた資産の価額の合計額のうちに占める割合が100分の80に満たない場合には適用されず、株式交付の直後の株式交付親会社が一定の同族会社に該当する場合も除かれると説明している。現金等を混ぜられるのは2割までで、そこを超えれば売り手の手取りが減り、その分が価格に跳ね返る。 配分は価格の後で調整する変数ではなく、価格を動かす変数である。
そして日程は資金の側から逆算する。届出が必要な規模なら、独占禁止法第10条第8項により届出受理の日から30日を経過するまで株式の取得はできない。クロージングが後ろにずれれば、ブリッジローンの実質的な猶予だけが短くなる。 株式交付を使うなら株主総会の承認の日程も入る。この二つを織り込んでから、ブリッジの期間と金利の見積もりを作る。
意向表明に「手元資金及び借入により調達予定」とだけ書いた時点で、価格の上限は外れる。資金の上限と現金・株式の配分は、上限価格を決める会議で同時に決める。
その会議までに、財務部門は月次の最低現預金残高と、コベナンツの抵触点を四半期ごとに試算した表をそろえておく。届出が要る規模なら独占禁止法の30日をブリッジの日程に入れ、株式対価を使うなら、買い手が同族会社に当たるかを交渉前に税務顧問へ確かめる。
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